戦争に行く息子を見送る母

娘と息子を失った後、ねねと秀吉の夫婦の距離はだんだん広がっていきます。秀吉が、日本を超え、朝鮮半島、中国大陸へ進出する野望を抱くのですが、ねねはその計画に反対でした。そこで、ねねは義理の息子に当たる後陽成天皇にかけあい、やめるように勅旨を出してもらいました。

義理の息子というのは、秀吉は関白になる前に、近衛前久の養子になった経緯が理由にあります。この縁組の後、近衛前久の娘の前子さきこがねねと秀吉の養女となっており、前子は、即位が確定していた後陽成天皇と結婚しました。この婚姻をもって、ねねは、天皇の義理母にもなっていたのです。

肝心の秀吉は、誰の諫言も聞き入れず、朝鮮出兵を進めます。朝鮮へ進軍するにあたり、ねねが育てていた養子の金吾も参加することになり、金吾は大坂を離れ、秀吉のいる九州へ出かける運びとなりました。そして、到着するやいなや、ごきげんななめのねねの様子を秀吉に報告したのです。金吾は、「母にお願いしておいた武具や道具は何も整わず、母は機嫌が悪かった」と秀吉に言ったのです。金吾は、ねねと秀吉が大事にしていた養子ですから、秀吉は「何たることだ、ねねが可愛がらなければどこの誰が可愛がってやるというのだ!」と憤慨しました。

しかし、どうしてねねは、金吾に武具をそろえてあげなかったのでしょうか。考えてみてください。戦争に行く息子を見送る母の気持ちは、身がちぎれそうな思いに違いありません。どんなに高価な武装を渡しても、戦でわが子が死ぬかもしれないと思うと、ねねは金吾を見送りたくなかったのではないだろうかと思えます。金吾を着飾って送らなかったのは、秀吉の朝鮮出兵へ反発する母心だったのかもしれません。

秀吉没後は京都へ

文禄2(1593)年8月9日。茶々が2人目の男児を出産しました。喜ぶ秀吉は慶長2(1597)年に入ると、隠居のための城を京都に造り、9月には息子に秀頼という名を与え、新しい城に転居しました。

しかし、翌、慶長3(1598)年。秀頼が数えで5歳になる頃、秀吉は病床に伏してしまいます。ねねは伏見で病床の夫に付き添い、早期回復のために神社仏閣に祈祷を依頼しますが、ねねの願いむなしく、秀吉は旧暦8月18日に死去します。

秀吉没後、慶長4(1599)年。秀頼と茶々を残し、ねねは大坂城を離れ、京都に常駐することを決めます。引っ越したねねの代わりに大坂城に入ったのが、徳川家康です。秀頼の後見人という名目はあれども、すぐに秀頼と茶々をはじめとする豊臣家との仲が悪くなり、その不仲の情報は、京都でも噂として伝わっていきました。そんな中、ねねは、依然として「北政所」と呼ばれながら、能を鑑賞し、神楽という宮中芸能を催したりしていました。武将の未亡人としてではなく、公家の一員として、皇居内の京都新城で余生を過ごすことにしたのです。