鶴松の「おかかさま」

関白職についた秀吉と、北政所の称号を得たねねは、古都京都に聚楽第を構え、独自の暫定政権の体制をいっそう強固なものにしていきました。京都には、天皇家や皇族、さらに、寺社仏閣の住持が暮らしていましたから、ねねと秀吉は、将軍家を開いて武士の頂点に立つことで統一を成し遂げるのではなく、日本に古くからある朝廷や皇族の権限をうまく利用しながら、統治者としての力を伸ばしていきました。そして天正18(1590)年ごろまでには、日本列島の大部分が豊臣の政略網の中に入ることになります。

天正18(1590)年4月13日に、秀吉が北条氏政、氏直を相手に小田原に詰めている間にねねに送った手紙には、「長期戦になるので、(側室の)茶々を小田原に呼んでほしい」と書かれています。ねねから直接茶々に話をし、前もって準備をさせるように。ねねの次に茶々が気に入っているので、こちらに派遣してほしいと、リクエストしました。ねねが43歳、秀吉は55歳のころのことです。ちなみに、茶々は永禄12(1569)年誕生説にのっとると、数えで21歳でした。

茶々は、前年の天正17(1589)年5月27日に秀吉の男児、鶴松を産んでいます。しかし、子供を産むことで、彼女の地位が引き上げられたわけではありません。その証拠に、鶴松に宛てた手紙では、秀吉がねねと茶々を「両人の御かかさま」と呼んでいます。茶々が遠くへ出かける時の面倒だけではなく、正式には、鶴松は秀吉の正妻のねねの子供とされていたのです。

想定外の展開

長期戦になった小田原攻めのあいだ、ねねは大坂にとどまりました。城には先に紹介したとおり、同居していた養子や養女がねねのそばにおり、ねねは妻としてではなく、もっぱら母として多忙な暮らしをしていました。

天正18(1590)年8月。養女のひとり、お姫が病気になったようです。彼女は、織田信雄のぶかつの長女で1585年くらいに生まれました。すぐにねねと秀吉の養女になり、ねねのもとで他の養女とともに育てられていました。お姫はその後、徳川家康の後継となる秀忠と天正18(1590)年に6歳で婚約しています。織田の血をひき、豊臣の娘として育てられたお姫ですが、徳川に嫁ぐころになっても病気から回復せず、ついに天正19(1591)年、7歳で夭折してしまいます。

お姫は織田、豊臣、徳川の連立の要になるはずでした。お姫が生きていれば、歴史は確実に変わっていたでしょう。

さらに、お姫が亡くなってから1カ月もたたない8月2日、鶴松も病に見舞われます。神社仏閣で即座に回復を祈る大規模な祈祷がなされましたが、そのかいなく、8月5日に鶴松は息をひきとります。数えで3つでした。ねねは大きな悲しみとともに、跡取りと縁組による政治的な計画が狂うという現実と向き合い、想定外のシナリオを進むことになります。