豊臣秀吉の正室ねねは、生涯にわたって子供を産むことはなかった。それにもかかわらず、歴史上は非常に強い存在感を残した。歴史学者の北川智子氏は「ねねは戦略的に養子縁組を重ねることで、豊臣・徳川・天皇家の重要人物となった」という――。
絹本着色高台院像
高台寺所蔵
絹本着色高台院像

あまり知られていない「母」としての顔

北政所ねねといえば、豊臣秀吉の出世に連れ添った糟糠そうこうの妻として、ご存じの方が多いかもしれません。しかし、ねねは単に秀吉の妻だったから周りに影響力を持てたのではありません。また、ねねは秀吉との間に子供がいなかったことも広く知られていますが、実はそれも「真実」とは程遠いものです。

日本史を動かした女性たち』(ポプラ社)は、歴史資料を基にねねや豊臣家の女性たちの生き方を検証していきます。従来の戦国時代の通説を覆す史料に驚くばかりですが、ここでは、ねねの妻としての役割と、あまり知られていない「母」としての顔をご紹介したいと思います。