豊臣秀吉の正室ねねは、生涯にわたって子供を産むことはなかった。それにもかかわらず、歴史上は非常に強い存在感を残した。歴史学者の北川智子氏は「ねねは戦略的に養子縁組を重ねることで、豊臣・徳川・天皇家の重要人物となった」という――。
あまり知られていない「母」としての顔
北政所ねねといえば、豊臣秀吉の出世に連れ添った糟糠の妻として、ご存じの方が多いかもしれません。しかし、ねねは単に秀吉の妻だったから周りに影響力を持てたのではありません。また、ねねは秀吉との間に子供がいなかったことも広く知られていますが、実はそれも「真実」とは程遠いものです。
『日本史を動かした女性たち』(ポプラ社)は、歴史資料を基にねねや豊臣家の女性たちの生き方を検証していきます。従来の戦国時代の通説を覆す史料に驚くばかりですが、ここでは、ねねの妻としての役割と、あまり知られていない「母」としての顔をご紹介したいと思います。
ねねは、夫の秀吉に「おねね」と呼ばれ、結婚後、尾張(現在の愛知県)に住んでいました。二人が一つの藩を仕切るまでに出世したのは天正2(1574)年の6月ごろのことです。秀吉は藩主に取り立てられ、天守閣に居を構えました。もともとは、足軽という低い身分だったので、長濱の城主になった時点で一世一代の大出世でした。
ねねと秀吉の夫婦の間で、夫の秀吉が絶対的に強く、全てを一人で決めていたかというとそうではなかったようです。例えば、長濱の城下に住む人々への年貢のレートについて二人が相談している様子を今に伝える手紙があります。そもそも城主になってから、長濱の町人たちにできるだけ負担が少なくなるよう、税に関して二人は寛容な政策をとっていました。
しかし、税の負担が軽いと噂を聞いた隣人たちがこぞって長濱に引っ越してきたため、過度の人口流入が新たな問題となりました。