医師として、患者の文脈を読み解く

最後に、私が身を置く医療の世界とアートとのつながりについて触れたいと思います。そもそも私が医師になった理由は、「人生を自分で選びたい」と痛切に感じたからでした。今ほど女性の社会進出が進んでいない時代に10代を過ごした私は、自立的に生きていくために医学部を目指した経緯があります。なかでも耳鼻咽喉科を選んだ理由は、老若男女多様な患者さんがいて、多様なコミュニケーションを取れる点に魅力を感じたことにあります。

ちょうど、医師として5年ほど働いた頃、「患者さんのため」のつもりで学問的に正しい手順を必死に守ることが、相手に満足していただくどころか、かえって傷つけてしまうこともあるということにようやく気づきました。

当時を振り返ると、患者さんの病気を治すこと、少しでも長生きさせることだけを目指すあまり、自分自身の思いに対して、かたくなになっていたのだと思います。

書棚
撮影=西田香織

そのときにふと気づいたのは、「人によりみな価値観は違う」という当たり前のことでした。完治しているのに不安を抱えている人もいれば、完治はしていないけれども病院には行きたくないという人もいます。治療にどれくらいのお金や時間をかけるのかも人それぞれで、唯一の正解はありません。このことに気づいてからは、「これが正しい」と医師として上から判断するのではなく、患者さんの考えに興味をもち、それぞれの文脈を抽出するように意識しています。

これは、特定の正解をもたないアートに向き合うときの気持ちとまったく同じです。「これってアートと同じなんだ」と気づいてからは患者さんと互いに納得をしながらコミュニケーションを取ることができ、以前より少しだけ温かな診療を行えるようになった気がしています。