※本稿は、石川智久『大阪が日本を救う』(日経プレミアシリーズ)の一部を再編集したものです。
歴史的・地理的要因のなか生まれた大阪都構想
大阪都構想というのは実は維新の専売特許ではない。古くからある議論であり、一人の政治家や政党によるものではない。もしかしたら大阪の人もそんなことを忘れてしまっているのかもしれない。さて、北村亘氏の著作『政令指定都市 百万都市から都構想へ』(中公新書)によると、大阪都構想の源流は1953年に府議会で議決された「大阪産業都構想」と言われている。
なぜそのようなことが議論されたかというと、吹田市や東大阪市といった大阪の周りの衛星都市に一定の規模があり、力も強いので大阪市域の拡大が難しいこと、大阪市外の居住者が大阪市内に勤務し、大阪市から行政サービスを受けているのに、大阪市に納税しないという問題が発生したからである。
府と市の足の引っ張り合いを揶揄した「ふしあわせ(府・市あわせ)」問題もある。仲が悪いだけであればまだ良いが、府が何か作れば、市も負けずにハコモノを作るといった過剰投資がみられた。そして大阪府市ともに財政を悪化させた。こうしたなか、大阪府と大阪市の関係がこれでは良くないという意見が非常に強くなった。
また、大阪都構想が議論される背景には大阪府市の面積の小ささというのもある。私の出身地の北九州市は政令指定都市であるが、福岡県は結構大きく、北九州市のターミナル駅の小倉駅から福岡市の博多駅までは新幹線で20分近くかかるので、福岡市と北九州の合併はあまりイメージしにくい。
一方で大阪府は面積では全国で二番目に小さい。また、大阪市に住んでみるとわかるが区の面積が非常に小さい。大阪の現状の区を3つか4つ合わせると、東京の一つの区になるようなイメージである。私の経験からしても、大阪市内を30分も歩けば2つ3つの区を横切るということは珍しくない。
そうした歴史的・地理的要因のなか、維新が出した答えが「大阪都」構想であった。もちろん、必ずしも合併しなければ大阪府市の問題は解決しないわけではない。ただし、合併というのは争点としてはわかりやすいので議論が盛り上がったというのがこれまでの経緯である。そしてそれが2020年11月に住民投票にかけられる。2015年にも実施されたがそれは僅差で否決された。今回が本当に最後の勝負となろう。