アメリカで挫折したことで気付いた自分の適正
【三宅】研究者の道を外れる葛藤みたいなものはなかったんですか?
【高嶋】ありました。三十歳近くまで、それだけを考えて、努力してきたわけですから。でも、原子力研究所を大見得を切って辞めて出たわけですから、戻るわけにもいかない。また、研究分野では大したことはできない、と自覚もしていました。僕の能力は、別なところにあると自分に言い聞かせましたね。いまになって言えることは、「人には向き不向きがある」ということです。誰にも、向いている道はある。それを職業にできることは幸せです。でも、どんなことに適性があるかは、やってみないとわからないです。アメリカで挫折を経験できたのは、僕にとっては幸いなことだったと思います。
【三宅】いまの言葉で励まされる方は多いと思います。
【高嶋】高校から講演を頼まれることがよくあります。「楽しい努力」というタイトルで話します。そのとき、「ムダな努力はするな」と言うと、先生たちは怪訝そうな顔をします。「死ぬほど努力して、初めてムダかどうかわかる」と続けると、ホッとした顔をします。「その努力は、必ずいつか生きる」と続けると、頷いています。自分に向いている道を見つけるための努力だと思います。
小説家になるために新人賞に応募しまくる
【三宅】帰国されて小説はずっと書かれていたわけですか?
【高嶋】帰国後、2~3年の間にアメリカの教育をテーマにした本を2冊〔『アメリカの学校生活』(文化出版局)、『カリフォルニアのあかねちゃん』(三修社)〕を出すことができました。本格的に小説を書き始めたのは、帰国後、10年目くらいですね。年子が3人でき、塾の経営もうまく行っていたので、人生を楽しむというか、子供たちと遊んだり、釣りに行ったりしているうちに、時間が経ってしまった感じです。
【三宅】素朴な疑問なんですが、どうやったら小説家になれるんですか?
【高嶋】僕もいろいろ考えました。誰かのツテを使おうと考えた時期もありますが、ダメでした。俳優さんなど著名人を除いて、やはり新人賞を取らなければ小説家デビューはできません。難しいですが、一番の近道です。いまは商業出版以外にも、ネットなど作品を発表できる場が増えていますが、当時はやっぱり紙の本がすべてでした。だから、ひたすら新人賞に応募していました。最初思ったほど、全然、ちょろくはなかったです。
【三宅】それで『帰国』で北日本文学賞をとり、『メルトダウン』(講談社)で第1回小説現代推理新人賞を受賞。さらに『イントゥルーダー』(文藝春秋)がサントリーミステリー大賞と読者賞のダブル受賞をし、ドラマ化もされています。お見事です。
【高嶋】『イントゥルーダー』は結構根性入れて書きましたね。一年かがりでした。