再び、西武の人間に

上海へ移住しようかと考えていた頃、91年に香港西武の館長として香港に赴任していた石川から電話が入る。

「香港西武でメンズのバイイングの仕事をしないか」

バイイングの仕事はかねてからの夢だ。だが、日本の百貨店のバイイングは私がやりたい仕事ではないと返事をすると、石川は即座にこう言ったそうだ。

「わかっている。自分で仕入れて自分で売る、本当のバイイングをやってほしい」

いつも自分にチャンスをくれる石川にウーは縁を感じ、恩人だと感謝した。結局、ウーは石川の申し出を受け、再び西武百貨店の人間になるのである。

現在の香港西武には、石川が率いていた頃の面影はない。別資本に買収され、中身は以前とまったく違う。「西武」や「SEIBU」のロゴは商標使用権に基づいて使用されているだけだ。

90年代半ばまで、香港西武はトップエンドのファッションを提供する百貨店だった。日本の西武百貨店よりももっとオシャレで高級感あふれる売り場が広がっていた。この店にふさわしいファッションを仕入れようと、ウーは世界中を飛び回り、ショーに足を運んで、メンズファッションのバイイングに明け暮れた。トレンドを読み、客の好み、サイズ、色、納期、売り場展開を頭に入れながら商品をセレクトし仕入れたノウハウは、分野こそ違うが、シティスーパーで役立っているという。

石川は赤字だった香港西武を95年には黒字化している。「パワフルで洗練されたビジネスマンだった」。石川を知る人の共通した人物評だ。ファッションに目覚めた香港人の志向を読みとるマーケティングマインドと優れた経営手腕を備えた石川のもと、ウーのような人材が一致団結し、香港西武は隆盛期を迎える。

にもかかわらず、96年5月、石川は本社から帰任命令を受けとった。子会社の西洋環境開発と東京シティファイナンスが多額の負債を抱え、リストラを断行していた西武は海外店舗の売却に動いていた。名乗りをあげた香港のアパレル・宝飾品大手のディクソン・コンセプツは、「日本の幹部はいらない」と条件を提示。「親」の不始末のツケが優秀な「子」に回り、「子」は撤退を迫られた。