当時、西武はニューヨークに進出しており、毎年SEEDの社員1名がNY西武へ派遣され、バイヤーとして研修を積んでいた。ウーももちろん熱望したが、誰もが希望するプログラムである。選ばれるのは難しい。
そう考えていたら、石川がウーを推薦。派遣が決まった。
「なぜ自分が選ばれたのかわからない。結局、石川さんには1度もその理由を聞けないままでした。ただ、いよいよ渡米する直前になって、ビザが降りないことがわかったんです」
香港人としてのパスポートを持ち、日本ではワーキングビザで働いているウーに対し、米国大使館は「日本の会社が中国人をなぜNYに送るのか」と疑問に思い、ビザ発給を見送った。
石川の推薦もむなしく、NYでバイイング(買い付け)の研修を積む道は絶たれたが、ウーはいつか必ず夢をかなえたいと、休みの日になると本部のバイヤーから手ほどきを受け、プライベートでバイイングの勉強を続ける日々を送った。
まもなく、ウーはある決定的な事実に気づくことになる。
「西武百貨店は場所貸しをしているだけで、本当のバイイングをしていない。している人は10人のうち1人いるぐらいでした。バイイングといっても結局はブランドの編集なんですね。そして、これは日本の百貨店のシステムであることがわかりました」
ウーが考えるバイイングとは、自らの目で売れる商品を探しだし、仕入れ、販売するプロセスを指す。ところが、百貨店はブランドの誘致に明け暮れ、せいぜいが「どう編集するか」に頭を悩ませる程度。仕入れた商品を売り切る覚悟がなければ、仕入れの「目」は甘くなる。ファッションの目利きなどあまり必要とされない世界がそこにはあった。
ファッションがどんなに好きでも、自分の希望は日本の百貨店業界とはマッチしない。百貨店のシステムに失望したウーは、92年に西武を退社。国際羊毛事務局に転職し、日本支社で働いた後、香港に戻り香港支社で勤務する。
ウーの仕事は、中国のウールのマーケティングだ。80年代後半から中国では洋服の生産がはじまっていた。発展著しい中国で紡績開発をサポートする仕事は刺激的であった。