いい加減さこそが大衆なんだ
「たがや」という落語があります。
「たが」とは桶の外枠をはめる竹や金属の輪のことで、次のようなあらすじになっています。
隅田川の川開きの当日、両国橋の周辺は花火見物の人だかりでまさにすし詰め状態。その混雑の中をかき分けて、馬に乗り供を連れた侍一行が通りかかった。すると反対側からは、たが屋が道具箱を担いでやって来る。
たが屋はあちこちから押され、そのはずみで持っていた「たが」が外れて馬上の侍の笠を弾き飛ばしてしまった。たが屋はひたすら謝罪するが、侍一行は一向に許さない。ここでたが屋が開き直り激昂する。
「たった一人のたが屋VS侍一行」という図式に観衆は大盛り上がり。たが屋が刀を奪って共侍を切りつけると、観衆はさらにたが屋に加勢する。家来をやられた馬上の侍が下りてきて1対1になるとさらにヒートアップ。中間から受け取った槍をぴたっと構える主侍に対して、勢いのあるたが屋はやはり優勢で、横一線にスパッと刀をはらうと、侍の首が中天にピューっと飛んだ。それを見ていた観衆は思わず……「上がった上がった上がった上がった上がった! たが屋〜♪」
真夏に頻繁に演じられる名作で、それぞれの落語家がオリジナルのくすぐりで光らせることのできる噺でもあります。師匠の談志はこの結末部分を、それまで優勢だった「たが屋」の首が侍によってハネられ、それでも観衆が「たが屋~♪」と叫んだというオチに変えています。
最初は判官贔屓で弱いものの味方という風情で「たが屋たが屋」などと声援を送ってはいるが、たが屋のクビがハネられてしまうような悲惨な結末を迎えたとしてものんきに『たが屋~♪』と叫ぶ……つまり談志は「大衆の無責任」をテーマに据えたのです。そんな「いい加減さこそが大衆」なんだと、より深いテーマの落語に仕上げたのでした。
「同調圧力」との距離感はつかめているか
さて、ここで日本人の「同調圧力好き」と「たがや」を掛け合わせてみます。
すると、「同調圧力を振りかざしてくる大衆の実体なんて得てしてそんなものなんだよ」という深淵なる真理が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
さらにいえば、「同調圧力」に対する姿勢が学べるはずです。世間が主張する「世論」なんかもこの類いでしょう。「談志版たがや」で「同調圧力」に対する距離を学べば、目に見えない世論や同調圧力などでも可視化されるような気さえします。
「完全に賛同すべきではないけれども、無視すべきほどでもない」みたいな「同調圧力の実体」が感覚としてつかめるのではないかと、ひそかに信じています。
落語という世界に誇るべき文化を産んだのも「同調圧力」ならば、日本人を同質化・均質化させ、そのシフトチェンジを阻んでいるのも「同調圧力」なのであります。
あ、詳しくは『安政五年、江戸パンデミック。』をお読みくださいませ(笑)。