もう少し詳しく当時の資料を調べ、また当時の関係者に会ってあらためて話を聞くと、かなり違った風景が見えてくる。ここでは、簡単に概略だけ述べるに留めるが、同社の流通革新概念の誕生の経緯に関していくつかの興味深いエピソードが見つかる。

第一に、同社はみずから困難な道を選んでいることである。ポテトチップスといっても、タイプはいろいろ。現在のカルビーが商品化しているフラットタイプ、チップスターのような成型タイプ、そして棒状のシューストリングタイプがそれだ。同社は、導入に先立ってアメリカのアイダホを中心とする成型チップスの工場を視察に行ったり、シューストリングタイプの生産工場を買収したりしていた。だが、実際に選んだのは「フラットタイプ」だった。当時の松尾孝社長がそのタイプへのこだわりが強かったためといわれている。

選んだそのタイプは、いわばポテトを薄切りにして揚げただけのものであり、加工度としては一番低い。成型する工程や他成分と混ぜ合わせる工程はない。「農産物」といってもいいくらいの商品だ。松尾社長は、「工業品ではなく、農産物としてのポテトチップスを世に問いたい」と思われたのだろう。だが、そのタイプは、「農産物商品」であるので、素材がことのほか重要であるほか、商品鮮度維持にも特段の注意を払う必要のある商品であった。つまり、カルビーはみずから、ポテトチップスの中でももっとも鮮度が問題となるタイプの商品を選び取る決断をしていたのである。決して、売れなくなって初めて、「ポテトチップスは、鮮度が大事なのかも」と思い至ったわけではない。

第二に、流通改革は、新商品が導入される前にすでに喫緊の課題となっていて、それへの熱心な取り組みが行われていたことである。当時東京進出を果たし、激烈な価格破壊を図っていた「ダイエー」の存在が大きかった。時には消費者を引きつけるために、原価割れの販売も辞さないその商法に対して、消費財メーカーはどこも流通営業政策の大きい変更を迫られていた。カルビーも例外ではない。スナック業界トップ企業として、業界の先頭に立って価格/流通政策への新しい取り組みを迫られていた。そして、それに対応すべく、松尾孝社長の三男の松尾雅彦氏が営業本部長の要職に就き、氏の陣頭指揮の下、流通における乱売対策を含め新しい流通施策づくりに注力したのである。ポテトチップス導入前の74年には、取引条件の標準化を図るべく第1回となる取引条件改定を行っていたのだ。

第三に、72年に神戸市が製造日付の表示を市の条例として制定したことに対して、いち早く反応して、全製品に製造日付を入れたことがある。商品鮮度に対する同社の感度は、すでにして高かったのだ。