「将門様のお社」として定着した神田明神

移転に際して、関東の領主となった家康は、遠い昔、朝廷を向こうに回して関東の「独立」を図った将門に大いに感じるところがあったのだろう、神田明神を山王権現とともに江戸総鎮守とした。神田明神は思いもかけなかった破格の出世をすることになったわけである。神主には将門の末裔という芝崎氏が任命され、代々世襲で神事をおこなった。興味深いことに、神田明神は江戸城の鬼門、山王権現は裏鬼門に配置された。

以後の約百年は、神田明神の祭神は「平将門の霊一座」のみであった。しかも、すでに述べたように、寛永年間(1624―44)には朝敵という烙印も除かれ、さらには霊元天皇の勅命で「神田大明神」という勅額も社殿に掲げられた。この時期は神田明神の黄金時代であったと言っていいだろう。

ところが、いつの頃からか、またなぜかもわからないが、神田明神に「大己貴命(おおなむちのみこと)」も合祀されるようになった。しかし、江戸時代を通じて、例えば『江戸名所記』に「神田明神 この社は将門の霊なり」とあるように、神田明神は江戸の住民には「将門様のお社」として認知されていた。祭礼も山王権現と交代で二年に一度盛大におこなわれ、たくさんの出車だしの江戸城練り込みをクライマックスにした、江戸っ子の心意気を示す祭りとなっていた。

実は、将門の霊は「第一座」ではない

五月のある日、わたしは久しぶりに神田神社に参拝に出かけることにした。神田神社は御茶ノ水駅のすぐ近くにある。駅の東口から聖橋に出る。神田川と中央線の上に架かっている橋である。この橋を渡るとすぐのところに湯島聖堂の森がある。神田神社はこの聖堂の森の道路を挟んだ反対側に位置している。東側は坂になっていて、野村胡堂の小説のなかでの話だが、かつてこの坂の下の長屋には銭形平次が住んでいた。いまは秋葉原の電気街となっているが、そのあたりを歩いてみると、いまでもそんな趣を残す長屋風の住宅がまだ残っている。

神田神社の鳥居をくぐって進むと、豪壮な随神門ずいしんもんがあり、その門を入って本殿を望むと、鉄筋コンクリート造り・総朱漆塗り、屋根は銅板瓦二枚重ね本葺き、外観は権現造という豪華な社殿が控えている。

祭神は当然のことながら、将門の霊が第一座と思われる読者が多いにちがいない。ところが、違うのである。現在の主祭神の第一座は大己貴命、第二座が少彦名命すくなのひこなのみことであって、平将門は第三座という扱いになっている。しかも、あまり知られていないが、第三座になったのも昭和59年(1984)のことで、それまでは摂社せっしゃにすぎなかったという。