「新皇」を名乗り、関東の分国化を目指した

平将門とは、平安時代中期の関東地方の豪族で、承平・天慶年間に起こった平将門の乱(935―940)を起こした中心人物である。桓武天皇の子孫にあたる平良将の三男として生まれた将門は、父の早世後、所領や女性問題をめぐって、筑波山麓地帯に勢力を張っていた東国平氏の族長的な存在であった伯父の平国香くにかや平良兼よしかねたちと激しく対立し、互いに武器をとって戦うようになった。戦いを繰り返すなかで次第に勢力を広げ、宿敵・良兼の病死後は常陸ひたち一帯をその支配下に収め、やがて朝廷側から見ると公然たる反国家的な行動をおこなうようになった。

そして、ついに天慶2年(939)、将門は常陸の国衛こくが(国司の役所)を攻撃して焼き払い、さらにその余勢を駆って下野・上野以下の関八州の国衛を制圧した。そして「新皇」を名乗り、関八州の国司を任命して、朝廷の支配から離れた関東の分国化を目指した。しかし、将門の関東支配は数カ月しか続かず、朝廷側の藤原秀郷ひでさと・平貞盛さだもりらに追討される。

その首級しゅきゅうは京都まで運ばれて、獄門にかけられたという。

京都側のイメージ「将門の死=神仏の罰」

後世の人びとのあいだで語られる将門には、異なる視点から形成された二つのイメージがある。一つは京都側のものである。王朝文化が花開こうとしていた時代、京都から遠く離れた坂東ばんどうの地で起こった反乱は、京都の天皇・貴族たちを恐怖のどん底におとしいれた。それは将門が京都にまで侵攻してくるのではないかという物理的恐怖をともなう、まことに深刻なものであった。

天慶3年(940)正月、朝廷は将門を極悪非道な狼籍者と断じて将門追捕ついぶの軍勢を送り、また宮城十四門に兵士を配置して防御させ、さらには諸寺社や高僧・宮廷陰陽師たちに将門の調伏ちょうぶく(呪殺)の祈祷を依頼している。武力と呪力の双方を動員しての怨敵退散を図ったのである。

その調伏の呪術のやり方は、悪鬼(将門)の名前を書いたものを護摩壇ごまだんに投げ入れたり、賊徒(将門)の形代かたしろである人形を棘のある木の下にくくりつけて呪詛するというものであった。すなわち、こうした呪術的コンテキストでは、将門の死は神仏の罰が下されたもの、つまり調伏・呪詛の呪法の成功というふうに理解されたわけである。