「怨霊化」した菅原道真との違い

天慶の頃と言えば、あの菅原道真の怨霊が猛威をふるっていた時代である。獄門にかけられたあと、将門の霊は怨霊となって出現してもおかしくなかった。ところが意外なことに、将門の霊は死後怨霊化して朝廷・貴族を襲うことはなかった。というのは、京都には将門の怨霊を「御霊」として祀り上げたという神社が存在していないからである。どうしてだろうか。

もちろん、将門の怨霊化をまったく考えていなかったわけではないらしい。朝廷は天慶の乱での戦死者を敵味方の区別なく供養するようにとの命令を出すとともに、関東地域の役人の大刷新をおこなっている。それによって怨霊化の芽が摘み取られてしまったのだろうか。

わたしは別の理由があったと推測している。当時の宮廷社会での怨霊の候補者は、その社会内部に属していた者、自分たちと濃密な社会関係にあった者であった。そうした関係性に欠けていた将門に対して、貴族たちは怨霊を発生させる「後ろめたさ」や「同情の心」を抱くことがなかったのである。

語り継がれるほどに、神格化されていく

怨霊化はしなかったが、将門は京都の人びとのあいだで語り伝えられていく。賊徒として、悪鬼として、超人として、地獄に墜ちた罪人として。そして、そうした伝説のなかで、将門はどんどん神秘化されていった。

例えば、将門を討ったことで有名になった藤原秀郷を主人公とする室町時代のお伽草子『俵藤太物語』では、将門は「身長たけは七尺に余りて、五体はことごとくくろがねなり。左の御眼おんまなこには瞳二つあり。将門の変わらぬ人体同じく六人あり。さればいずれを将門と見分ける者は無かりけり」と、その超人ぶりが語られている。「将門の変わらぬ人体同じく六人」とは、後世に言う「七人の影武者」のことである。

豊原国周画「前太平記擬玉殿 平親王将門」、ウォルターズ美術館蔵
画像=『神になった日本人』
豊原国周画「前太平記擬玉殿 平親王将門」、ウォルターズ美術館蔵

これほどの超人であった将門も一カ所、こめかみだけが生身であることや、影武者は灯火を通して影がないという弱点があった。これを愛妾・桔梗前ききょうのまえの裏切りによって秀郷に知られ、敗れてしまうのであった。

このように、京都の人びとにとっては、伝説のなかでも将門は「敵」であった。しかも、将門は時代を超えて「朝敵」であり続けた。その烙印は江戸時代になって後水尾天皇から勅免が下されるまで続いたのである。