関東側のイメージ「将門=悲劇の英雄」

京都の宮廷社会では、将門は朝敵であった。しかし、京都の朝廷に対して思うところがある人びとは、朝廷に反抗して敗れ去った将門に親近感を抱いていた。その筆頭に挙げられるのは、関東に古くから住む人びとである。関東に縁もゆかりもない下級貴族が中央から派遣されてきて、国衛の役人として権力をふるい、私腹を肥やしているのを快く思っていなかった。だからこそ、かれらは関東の「独立」を図った将門を支持したのである。京都政権に敗れたとはいえその志は高く評価され、悲劇の英雄として在地の人びとに語り伝えられてきた。

茨城県坂東市の平将門像
茨城県坂東市の平将門像(画像=『神になった日本人』)

梶原正昭・矢代和夫の研究によると、将門伝説はとくに関東地方に濃密に分布していることがわかる。例えば、「佐倉惣五郎」で言及した佐倉の将門山の将門大明神は、将門の死後の天禄年間(970―973)に、藤原秀郷の第三子と第四子が相次いで将門の祟りによって亡くなったので、秀郷の命で将門の霊を祀ったものだという。

茨城県坂東市岩井の國王こくおう神社は、将門の戦没の地ということで将門の霊を祀る神社である。たとえ京都の朝廷からは朝敵として極悪人扱いされようとも、在地の人びとやその他の地域の民衆には、自分たちの思いを体現してくれた悲劇の英雄という思いがあり、それが在地・民間での将門伝説を支え続けたのである。

復讐ではなく、鎮魂を求める「祟り」

冒頭で紹介した大手町の「将門塚」も、こうした将門ゆかりの地の一つである。この塚を管理する史蹟将門塚保存会が設置した「将門首塚の由来」の看板には、次のように記されている。

将門は下総国で兵を起こし、坂東八个国を平定して新皇と称し、政治の刷新を図ろうとした。だが、平貞盛・藤原秀郷の奇襲にあって憤死し、その首級は京都に送られて獄門にかけられた。ところが三日後、その首は白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し、太陽も光を失って暗夜のようになった。村人は恐怖し、塚を築いて埋葬した。これがすなわちこの場所であった。

その後もしばしば将門の怨霊が祟りをなすために、徳治2年(1307)、時宗二祖真教上人が「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈し、塚の前に板石塔婆を建てて日輪寺に供養し、さらに傍らにあった社にその霊を合祀した。それでようやく将門の霊も鎮まり、以後はこの地の守護神になったという。

ここで語られる将門の祟りは、復讐のための祟りではない。それは祀り上げ=鎮魂を求める合図なのである。もっとはっきり言えば、祀り手側の「思い」、すなわち、将門の霊は怨みを残して死んだはずなので、その怨念を鎮めなければならないという「思い」が、飛ぶ首や天変妖異、病気などの祟りとして言説化されたものなのである。将門の英雄的行動を記憶し語り続けること、言い換えれば、祀り続けることが将門への最大の供養であった。そして、将門の霊を合祀したというこの「傍らにあった社」が、のちの「神田明神社」(神田神社)の前身であった。