光を放った将門塚から異型の武者が現れた

ところで、この将門塚をめぐる伝説は、内容にかなりの差異はみられるが、そうとう古くからいろいろと語られていたらしい。例えば、『永享記』に「平親王将門の霊を神田明神と崇め奉る」とあり、謡曲「将門」にも「神田明神」が将門を祀った社だと語られているので、この伝説は室町時代にはすでにかなり広く知られていた。

いま少し詳しく述べると、「安房洲崎明神」の社司の旧記によれば、将門の乱より十年後の天暦4年(950)、将門塚がしきりに鳴動し、暗夜に光を放って異形の武者が現れ祟りをなしたので、人びとは恐怖し、その霊を祀り鎮めたという(『将門伝説』)。『御府内備考』にも、かつて神田明神の小さな社の近くに天台宗末寺の日輪寺という寺があった。将門の乱後、平家ゆかりの者がここに将門の墳墓を築いたところ、天変妖異が続いたために、嘉元3年(1305)、真教上人が東国遊化ゆけの際に立ち寄って供養し、法号を授けてこれを板碑に刻んで建てたところ祟りは収まった。以後、日輪寺は時宗の道場として栄え、神田明神はその鎮守として崇敬されたという。

また、『神田神社史考』は、将門の乱後、獄門にかけられた首を都より持ち帰り、現在の将門塚のところにあった池(首洗い池)で洗い、上平川村(現在の大手町首塚付近)の岩屋観音堂で供養し、塚を築いてその首を埋葬し、さらに祠を建てて霊を祀った。この祠が現在は九段にある築土つくど神社(江戸時代は築土明神で、祭神は将門の霊)の前身であるという築土神社の社伝を紹介している。しかし、この築土明神の祠はすでに真教上人が来る以前に移転したため、大手町の塚の脇には荒れ果てた祠があるにすぎなかったらしい。

家康の江戸入府で、事実上の神仏分離

いずれにせよ、中世には、将門塚の脇には「神田明神」という将門の霊を祀る社があった。この神田神社の祭神が将門の霊だけなのか、それとも「神田」の名が語るように、別の神も合祀されていたのかは、もはや定かでない。

この社を管理していたのは将門塚の近くにあった日輪寺である。神仏習合の時代であるから、すでに紹介してきた談山神社や多田神社の神仏分離までの状態を想起すればわかるように、このような墳墓祭祀の形式はむしろふつうであった。この地に特別のことが生じなければ、おそらく、将門塚は江戸時代が終わるまで日輪寺が管理する塚=墳墓であり、神田明神もこの寺の管理する小さな社に留まっていたであろう。

ところが、その「特別なこと」が起こったのである。言うまでもなく、徳川家康の江戸入府であった。江戸幕府はただちに江戸城の普請と城下町の建設に取りかかり、このとき将門塚の脇にあった神田明神も、日輪寺も移転させることにした。神田明神はいったん山王権現さんのうごんげんとともに駿河台に、さらに元和2年(1616)、現在地の湯島(外神田)に移された。日輪寺のほうは浅草に移された。ある意味でこのとき、神仏分離がなされたのである。