明治時代に「追放されなかった」のは幸運だ
いったいどういうことなのだろうか。これには、明治時代に再び天皇親政となったことに由来する複雑な経緯、すなわち、文明開化期の政治的・宗教的状況が深く影を落としている。
当時、宗教行政を担当していた教部省は、神田神社の祭神から朝敵であった将門の霊を除くことを主張し、第一の祭神と信じる氏子の抵抗にもかかわらず、将門の霊は祭神の地位、つまり本殿を追われて摂社にされてしまったのである。もっとも、当時の状況から判断すると、完全に追放されずに摂社としてであれ留まることができたのは幸運であったと言うべきかもしれない。
当時の騒ぎを「郵便報知新聞」(明治7年9月14日)は、次のように伝えている。
氏子一同人心渙散し、例祭期日既に近づくといえども、難ありて事を挙行する者なく、あまつさえ神主柴崎を始め、氏子中千百来衣服豊贍安楽富有せしは、まったく氏神の恩恵なるを忘却し、朝廷に諂諛して神徳に負きし事の人非人なりとて怨み誹り、一文銭を投ずるとも快とせず、かえって旧神の新社別構のために醵金既に千円に近しと聞えあり。
例祭をボイコットした江戸っ子たち
ようするに、徳川将軍家のお膝元の江戸っ子たちは、天皇にこびへつらっている輩を将門の霊の威徳に背く人非人だと非難し、一文の寄付をするのも惜しみ、例祭をボイコットしたというのである。
案内してくれた神社の方に、そのあたりのことを率直に尋ねてみたところ、とても苦しげで曖昧な答えしか聞くことができなかった。また、神社として現在とくに強調している霊験はなにかを尋ねてみたが、これもとくにないという。しかし、将門の「パワー」にあやかってスポーツなどの勝負事の祈願に来る方が多いそうである。ということは、人びとのあいだでは、神田神社は大己貴命を主祭神とする神社ではなく、まだ将門の霊を祀る神社として知られているということになる。
ところで、神田神社と日輪寺が移転した後の「将門塚」は、さすがに潰すのははばかられたらしく、そのまま大名屋敷のなかに留め置かれた。明治になると大蔵省の敷地になったが、戦後になって民間に払い下げられた。また、関東大震災後に塚を崩すまでは、盛り土した墳墓状の塚と、そのそばに首を洗ったという池があった。
江戸時代から現在まで、神田神社の神輿の巡行では、この将門塚に立ち寄るのが決まりになっている。