【佐藤】私が知るどの新聞社でも、若い頃に「生涯一記者でいたい」といっていた人でも、政治部長や国際部長への出世話が出たとき、断った人は一人も見たことがありません。
私は外務省という会社にいましたが、ここなどは、もし課長を全員集めて「来月から給料を一割下げるが局長になりたい奴はいるか」と尋ねたら、全員手を挙げるでしょう。
【池上】なるほど(笑)。
【佐藤】つまりこれも宗教ですよ。
まだあります。お受験教や学歴教です。合理的に見て、志望大学のことだけを考えれば、大変な試験を受けていわゆる難関附属小学校や中学校、あるいは極端に偏差値の高い高校に入ってから一流私立大学に進むより、公立高校を出てその私立大学を受験するほうが、はるかに楽です。それでも、大変な競争になっても難関校の枠の中に入りたい、入ったら何かが違うと感じる人が大勢いるわけです。そうした競争がGDPを押し上げている側面は、あるにはあるわけですが。
このような意味では、われわれの周辺にはあちらこちらに「宗教的なもの」が転がっています。ただし転がっているけれども、「宗教的なもの」だとは感じないようになっている、それこそが問題だと思います。
「特攻隊は決して美化できるようなものではない」と語る生存者
【池上】私たちはそもそも、いわゆる超越的な存在があって、それこそが神だ、世界の摂理だと考えているところがあります。あるいはまた、輪廻転生という教えや、自然界のそこここにさまざまな神が宿っているという考えが宗教だと思っているところがあります。
ところが、例えばお金のために殺人を犯し、その結果人生を破滅させることもあることを考えるなら、お金にだって何か超越性がある、ということもできるわけです。たかがお金のために自分の身を捧げるということは、非常に不合理であるにもかかわらず、それを行なってしまう点において、いわゆる宗教で身を誤ることと似ている部分があるのではないか。そういうことですね。
【佐藤】気づいていない「宗教的なもの」には、「国家主義教」というのもあります。国家が宗教の機能を果たしている、ということです。
1945年の8月15日までの約10カ月、日本では多くの若者が、特攻隊でアメリカの艦船に突っ込んでいきました。この行為などは、やはり国家という宗教に殉じる行為だったといえるでしょう。
【池上】そうですよね。今、特攻隊の生き残りの人たちがどんどん声を上げています。そして「特攻隊は決して美化できるようなものではない」とおっしゃるのです。戦争を美化するような動きに対して、「いや、美化するのではなく本当の戦争を知ってほしい」と、彼らのうちの、多くの人が思うようになったのではないでしょうか。国家が孕む宗教性について考えるためにも、今こそ、このような方たちの話を聞く必要があると思います。