力不足を痛感する中、成功者たちの共通点に気づいた

勝った試合は選手たちの頑張りがあったからで、負けた試合は私の力不足だったからです。誰の眼にも明らかな采配ミスこそなかったものの、専門家なら「経験不足だ」と一蹴されてしまう場面は何度もあったのです。

果たして、翌13年シーズンは最下位に沈んでしまいます。

前シーズンまでの主力選手が移籍した、中心選手がケガをしてしまった、などの理由はありました。しかし、1位だったチームが6位になってしまうのは、もっと根本的な問題があったはずです。それはつまり、私の力量不足に他なりません。

過信も慢心もなかった。試合にはつねに全力で臨んだ。自分では全力を注いでいたつもりでしたが、野球は相対的なスポーツです。ファイターズが最下位に終わったということは、パ・リーグの6チームの監督のなかで6番目の努力しかできていなかった、と考えるべきです。私が考えた勝利へのシナリオは、穴だらけだったのでしょう。

就任3年目の14年シーズンを迎えるにあたって、私は自己改革の必要性を痛感していました。13年のシーズン終了後からすぐに手を付けられるものとして、自宅の本棚に眼を向けてみました。

学生時代から、本には親しんできました。ファイターズの監督になってからは、リーダー論や組織論などのビジネス書にヒントを求めることが多かった気がします。経営者や企業家の言葉を引用したそれらの本を読んでいくうちに、成功を収めたと言われる人たちの共通点に気づきました。

古典に当たっているのです。『四書五経』、『論語』、『易経』、『韓非子』といったものの教えが、時代を越えて模範的で普遍的な価値を持つことに気づきました。

気になった言葉はノートに漏れなく書き出した

テレビも、携帯電話も、インターネットもない何千年も前に書かれたものが、現代に生きる私たちの指針となる――これを驚きと言わずして、何と表現したらいいでしょう!

論語』に「君子は諸れを己に求め、小人は諸れを人に求む」というものがあります。

人の役に立つような行ないをする人は、成すべきことの責任は自分にあると考える。一方、自分本位の考えを持つ人は、責任を他人に押し付ける、といった解釈が当てはまるでしょうか。

敗戦を選手に押し付けない。ミスを選手の責任にしない。監督就任から行動規範としてきたことですが、この『論語』の言葉を読み返したときに、自分への疑問が湧き起こりました。

お前は本当に選手を信じているのか? 選手に勝利の喜びを味わってもらいたいのか? 13年シーズンの自分は、知らず知らずのうちに責任を誰かに押し付けていたのではないだろうか。

気になった言葉は、ノートに漏れなく書き出していきました。書き出して、読み返して、また書き出して、また読み返す。

ファイターズの本拠地・札幌ドームの監督室で、遠征先のホテルで、時間を忘れてノートと向き合っているうちに、私が味わっている苦しみは本当に小さなものでしかなく、そもそも苦しみと言うのも憚られるようなものなのだ、という気持ちになっていきました。先人の言葉が水や肥料となって、乾きがちだった心が潤っていったのです。