取材を通じて「障がい者」は「パラアスリート」に変わった

おそらく、私のようにことさら障がいを意識することなく、ごく自然に障がい者と向き合えてしまう取材者もいるのだと思う。もしも私のような人間の言動によって不愉快な思いをする障がい者が多いのだとすれば、私は差別的な人間であるに違いなく、批判を免れないと思う。

山田清機『パラアスリート』(PHP研究所)

その一方で私には、生い立ちから、抱えている障がいの特徴、家族や支援者の思いまで熟知しているパラアスリートが何人もできたという思いがある。彼ら/彼女らは、いまや私にとって「障がい者」ではなく、それぞれに顔と名前をもったパラアスリートたちだ。

私は何人ものパラアスリートと出会い、そのプライバシーに触れることによって、私自身の差別的な心のありようを知り、それをほんのわずかかもしれないが、削り落とすことができたように感じている。

こうした取材方法がはたして正当なものなのかどうか、読者の判断を仰ぎたいところだが、少なくとも私は、取材を通して出会ったパラアスリートたちが東京パラリンピックという大舞台で活躍することを楽しみにしているし、心から声援を送りたいと思っている。

二年前には、想像もできなかったことである。

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