“危険な人”を排除する方向に進んでいる

病院関係者によると、青葉容疑者は現在、感染症などの合併症を起こす危険な状態を脱している。自力歩行はできないが、会話は可能という。転院前、治療に携わった医療スタッフに対して「人からこんなに優しくしてもらったことは、今までなかった」と感謝の言葉を伝えたという。
京都新聞『京アニ事件容疑者「こんなに優しくされたことなかった」 医療スタッフに感謝、転院前の病院で』(2019年11月15日)より引用

新幹線無差別殺傷事件、京アニ放火事件、川崎連続殺傷事件、そしてこの「元農水次官による殺人事件」などは同じ延長線上にあり、「加害性のある弱者を、私たちは全社会的に包摂するような方法をいまだに見いだせずにいて、それどころか、どちらかといえば『包摂しない』という舵取りに向かっている」ということを図らずも示唆しているように思えた。

家族や福祉関係者だけが「犠牲になる」道

「加害性のある弱者を包摂しない」という社会的方針は、私たちがただ冷血漢だからそうしているというわけではない。功利主義的・個人主義的な観念から肯定される。たとえば、長期ひきこもり者で、精神疾患があり、家庭内暴力の既往がある「加害性のある弱者」ひとりを社会が包摂しようとすると、その際に発生するコストはひじょうに大きくなる。それは人件費的な意味でも、社会保障費的な意味でも、あるいはコミュニケーション・コスト的な意味でもだ。

だが、「包摂しない」という方針であれば、そのコストを負担するのはおおむね家庭とか福祉関係者とか、そうしたごく少数のセクションに限定され、「社会で『ふつう』に暮らす人びと」はその存在をほとんど関知することもなくて済んでしまう。

社会の全員でコストを支払って、物心両面のリソースを供出し「加害性のある弱者」を包摂するより、社会の成員の多くが包摂のためのコストを支払わず「加害性のある弱者」を不可視化してやりすごす方が、トータルで合理的だと判断する。言い換えると、社会の成員のきわめて少数が、時折その「合理的判断」のための「コラテラル・ダメージ(副次的犠牲者)」として犠牲になる――という道を選んでいるということになる。