やさしいことばで追い出す「迫害者」たち

たしかに、上述したそれらの事件のように、いくらセンセーショナルに報道されていたとしても、自分が直接的に遭遇する確率はほとんど天文学的であり、実質的に無視しても問題ないほどのリスクしか生じないともいえる。だが「あなたの勤める会社にもそうした人を入れる特別枠を作ろう」といった施策では、そうした人と関わる確率は猛烈に高くなる。

社会で包摂するというのは、そうしたコストを引き受けるということでもあるのだから、人びとが「包摂しない」という方向へと舵を取ることも、「合理的な側面」を評価すれば、まったく非情で冷酷な行為であるとはいえないだろう。

もちろん、その時に「お前は害があるから、あっちへ行け」などとは言わない。「あなたには、もっとふさわしい場所があるよ」とやさしいことばをかける。

「あなたにはもっとふさわしい場所がある、もっとふさわしい相手がいる(ただしここではないし、私たちでもない)」――そうすれば、やさしいことばをかけた自分が、「迫害者」として後ろめたさを抱えたり傷ついたりせずに済む。

「社会につながりを」では、なにも解決しない

こうした事件に嘆き、ときに憤りながら、しかし自分の身の回りには「加害性のある弱者」が接近してほしくない(相応の機関によって捕捉されてほしい、再雇用されるとしてもウチ以外にしてほしい)というのは、実際のところほとんどなにも言っていないに等しい。

「私たちは、自分自身の快適な暮らしのために『加害性のある弱者』を包摂しないでリソースを温存する方針をとっており、その代償として最悪の場合は社会の成員のごく少数の人びとが時々犠牲になるような『ロシアン・ルーレット』を回しています」ということを、はっきりと認めなければならない。だが、そんなことをだれも口が裂けても言えない。

テレビのニュースでは「支えるだれかがいれば」「相談できる窓口があれば」「社会につながりがあれば」などといった、コメンテーターのもっともらしい規範的議論でなにか言ったような気分になれてしまうし、世間的には納得感が得られてしまう。そうであるからこそ、こうした事件は今後も続いていく。

こうした事件をなくしていくのであれば、私たちは、ほかの答えを探さなければならない。

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