バカげているように思えるが、「凡て人の智は限りありて、まことの理はえしらぬものなれば、かにかくに神のうへは、みだりに測り論ふべきものにあらず」。人間の知恵には限界があり、本当の理などわからないのだから、とにもかくにも神のことを推し量ったり、あれこれ言うべきではない。そして彼はこう戒めるのである。
たゞ其ノ尊きをたふとみ、可畏きを畏みてぞあるべき。
我々はただ、尊さを尊み、畏きを畏むだけ。神さえも飛ばした同語反復で、これはまさに「とりあえず」の境地ではないか。
とりあえずこじつける。振り返れば、神社の「神道」も江戸時代に儒教(朱子学)にこじつけることで正統性を帯びたのではないだろうか。その立役者である林羅山は朱子学にならって「神道人道一理」(「神道伝授」/『近世神道論 前期国学 日本思想大系39』岩波書店 1972年 以下同)を唱えた。
パワースポットだからパワーがもらえる
「神ト人ノ心ノ神ト本ヨリ同理」、つまり神と人の心は同じ「理」に従っている。心を清めれば神も清まるわけで、「人有テコソ神ヲアガムレ、モシ人ナクバ誰カ神ヲアガムル。然バ民ヲ治ハ神ヲウヤマフ本也」。
人民を統治することと神を崇めることを一体化させ、全国各地の神社を整理したのだ。そして御神体について次のように秘伝を綴っていた。
筥ノ内ニ物ナク空ナルヲ幾重モ包ミ、又イレコニシテシメヲハリ、内陣ニ納時、此物ハ木ニテモアラズ、金ニテモアラズ、土ニテモアラズ、中ニ神ノマシマスト口ノ中ニ小声ニ唱。神ハ形ナキ故ナリ。高天原ニ神止ハ魂気ハ天ニ還ノ義也。
中に何もなくても「中に神のまします」と唱えれば、そこに神はいる。「ない」からこそ「いる」というのである。「パワースポットだからパワーをもらえる」と同じで、唱えることが実在を生み出すのだ。
林羅山は何もないことを天に帰ったと神話にこじつけており、その周到なこじつけぶりに私は感銘を受けた。おそらく「世界遺産登録」もこじつけの伝統の一環にすぎないのだろう。