――山本先生はその読み解きをご著書『「忠臣蔵」の決算書』にまとめられたわけですが、『金銀請払帳』には討ち入りまでに使用された金額が約700両(1両=12万円換算で約8400万円)と記されています。小谷さんは会計の専門家として、どのような点に興味を持たれましたか。
【小谷】『金銀請払帳』は支出の記録であり、決算書のようなものです。現代のビジネスでは、まず予算があり、それに基づいて活動をして決算をします。しかし、討ち入りまでのお金の使い方には、計画性がなく、結果オーライの面が強かったように感じました。江戸時代には予算を組んで計画的にお金を使う習慣はなかったのでしょうか。
【山本】おっしゃる通り、幕府の財政自体に予算を組む習慣はありませんでした。もちろん、必要な金額はおおよそ把握していましたが足りなくなれば借りればいいという考え方で、予算内に収めるという発想はなかったようです。
――それは借金ということですか。
【山本】そうです。当時は米を換金する札差という仲介人がいましたが、高利貸しも営んでいました。武士はお金が足りなくなると、札差から借りて翌年の給料で返せばいいと考えていました。
【小谷】しかし、浅野家には取り潰しの沙汰が下りて、新たに資金調達をする手段がありません。約700両の軍資金はどのように捻出したのですか。
【山本】藩の財産を処分しました。そこから藩士へ退職金を支払ったり、藩の借金を返済したりして残ったお金です。また、浅野内匠頭の正室である瑤泉院が嫁入りしたときに「化粧料」として持参したお金の一部も含まれています。もともとは化粧料の1000両を赤穂の塩田に貸し付けて、利子を私的な支出に使っていたのですが、赤穂を退去する際に内蔵助が元金を回収し、700両を瑤泉院に返納、残りの300両を預かりました。大雑把にいえば、軍資金約700両のうち半分弱が瑤泉院の化粧料、残りが藩の財産を処分した余り金となります。
資金面で「全員での討ち入り」はできない状況だった
【小谷】元禄14年3月14日(1701年4月21日)に、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかり、内匠頭は即日切腹となりました。それから1年4カ月後に行われた京都・円山会議で討ち入りを決めたわけですが、お金は相当減っていたのでしょうか。
【山本】百数十両残っているだけでした。同志が120人ほどいましたが、すでに全員を討ち入りに連れていくことはできない状況だったでしょう。
【小谷】なるほど。討ち入りの人数には予算的な制約もあったのですね。『金銀請払帳』を見ると、武具をあまり買っていないようですから、お金に余裕がなかったことがうかがえますね。