【山本】あとは内蔵助が自腹で支払った分もあるでしょう。
【小谷】そうですね。敵の目を欺くために使った遊興費は自分で出していたようですし。
【山本】内蔵助は1500石(約7000万円)の年収がありましたからそれなりの蓄えはあったはずです。ちなみに勘定方として経理の実務を担当していた矢頭長助の年収は200万~300万円程度でした。
石田三成が出世したのは、算勘の能力があったから
――当時の武士の職種は、戦を担当する「番方」と、行政や経営を担当する「役方」に分かれ、役方の中に会計を担当する勘定方があったという理解でよろしいですか。
【山本】そうです。計算が得意な勘定方が、使いすぎないように支出を管理していましたが、番方は従ってくれない。仕方なく、収入を増やす方法を考えていたのです。
――儒学者、軍学者であり、赤穂藩士の教育に深く携わった山鹿素行が「勘定のできない武士はでくのぼう」という言葉を遺していたようですが。
【山本】当時は家柄社会で、上級武士は「そろばん勘定などはいやしいこと」と考えていました。お金を扱っていたのは下級家臣でしたから、数字に強い人が多く登用されていました。当時の資料では「算勘」の能力と記されています。
【小谷】そろばんで勘定をする能力のことですね。当時は戦のない時代ですから、算勘に優れた人が重用される気もしますが。
【山本】やはり武士の世の中ですから、戦はなくても武道の練習をしているほうが上。勘定方は下に見られていたようです。とはいえ、大名であっても算勘の能力が欠かせなかったのは事実です。石田三成にしても出世したのは、算勘の能力があったからです。万人単位で兵を動かしたときにどれだけ米と味噌が必要で、それをどう運ぶか、計画を立てられるところが豊臣秀吉に気に入られて重用されたのです。ただ、世の中が安定して戦がなくなると、逆に算勘の能力の必要性が薄くなり、先祖に武功があった人が大きな顔をするようになっていったのです。
【小谷】戦がないから、命がけのお金のやりくりは必要なくなったのですね。
【山本】しかし、藩の財政を仕切るためには優秀な人材が必要です。能力の高い人を家老などに登用し、藩の財政再建を担当させることがあったのです。
――小谷さんは公認会計士として活躍されていますが、江戸時代にも「お金のスペシャリスト」がいたのですね。
【山本】元禄期には、算勘の能力だけでさまざまな藩を渡り歩く人がいました。勘定の能力があれば、一種の専門職としてあちこちの藩に仕官できたのです。