【山本】討ち入るにしては武具の購入費が少なすぎるように思われます。『金銀請払帳』は、討ち入り直前に内蔵助から瑤泉院に提出されたものですが、内蔵助の最後の手紙を見ると、瑤泉院の化粧料300両だけではなく、それを運用した利子収入も預かっていたと推察できます。しかし、利子収入については記録が残っていないので、金額がわかりません。利子という「隠し金」の使途が明らかになると、瑤泉院に累が及ぶ可能性があるため記録しなかったとしたら……。その隠し金は武具購入に回されたと私は推測します。
【小谷】討ち入りのような不確実性の高いプロジェクトにおいては、予算を計画管理するよりも、バッファーを持って管理するほうがよかったのでしょう。利子を隠し金というバッファーにしたのは、会計的にもうまいやり方ですね。このようにお金を上手に使いつつ、人の気持ちも掌握しなければいけなかった内蔵助は苦労が多かったでしょうね。
討ち入りは「資金的なタイムリミット」でもあった
【山本】たとえば、江戸に詰めていた剣豪・堀部安兵衛が「すぐに討ち入る」と意気込みましたが、内蔵助が2回にわたって人を送り、最後には自身まで出向いて思いとどまらせています。マネジメント的にもコスト的にも大変だったと思います。
【小谷】その際の旅費や滞在費はどのくらいかかったのでしょうか。
【山本】上方・江戸間の旅費は片道3両(約36万円)もかかりましたし、江戸滞在費も必要です。帰りの費用まで合わせれば100万円は超えていたでしょう。そのほかにも、内蔵助は軍資金を浪士の住まいの家賃補助などにも使っています。また、父に代わり、18歳で討ち入りに参加した矢頭右衛門七には、個別に10両を渡して支援しています。もしこの資金がなければ、生活に苦しい浪士は計画から脱落していったでしょうし、途中で暴発する者も出てきたでしょう。
――討ち入りは、内匠頭の切腹から1年9カ月後に行われました。
【山本】資金的なタイムリミットでもあったでしょうね。『金銀請払帳』を見ると討ち入りのひと月前には資金がほぼ尽きてきます。不足分は、隠し金で賄ったと考えられますから。
【小谷】赤穂藩に求心力だけではなくお金がなければ、討ち入りという大プロジェクト自体がなかったかもしれません。