「アルゼンチンタンゴで行こう」と決めた

さて、同社に関して世に知られる情報の9割以上はシウマイやシウマイ弁当の味、もしくは工場見学が大人気であることについてであろう。

しかし、同社が成長している原動力とはローカルブランドを守ったこと、そして、あとで述べる、シウマイ弁当のキャンセルポリシーだとわたしは考える。

では、まず、なぜローカルブランドをめざしたのか。答えるのは同社3代目社長の野並直文だ。

「私が専務時代ですから、ずいぶんと昔です。社長だった親父から示唆されました。

『直文、崎陽軒の進む道として、シウマイを全国に売るナショナルブランドか、それとも横浜を中心とする地域にこだわって、結婚式場なども含んだ総合サービス業をめざすべきなのか。おまえはどっちだと思う?』」

野並は考え続けた。そして1985年、彼は当時、「一村一品運動」で知られた大分県知事の平松守彦に会う機会を得た。

「私は知事から一村一品運動の基本理念の話を聞きました。『真にローカルなものこそがインターナショナルになりうる』と。知事はいい例が、アルゼンチンタンゴだって言ったんです。タンゴはブエノスアイレス地区の民族舞踊でしかなかった。しかし、真にすぐれた音楽性を持っているから、いまでは世界中の人が楽しんでいる。

そのときに決心しました。よし、うちもそれで行こう。アルゼンチンタンゴで行こうと決めました」

撮影=石橋 素幸
野並直文社長

20年かけて、全国展開をやめた

ただ、決心を実行に移すには時間がかかった。全国の流通に流していれば10億円程の売り上げになる。また、生産現場だって売れているのに減産したくはない。加えて、バブルが崩壊し、日本経済が低成長になっていたから、みすみす売り上げを減らすような施策を断行することは難しかったのである。

そんな折、彼はある場所で自社の「シウマイ」と出会った。

「姫路に姫路城を見に行ったことがあって、近くのデパートにトイレを借りに行ったんですよ。そうしたら、トイレの入り口近くのワゴンに、うちのシウマイが山のように積まれていたんだ……。トイレの前じゃ、シウマイがかわいそうだなあと思ったんだよ。横浜のブランドだ、大切な商品だと思って一生懸命、作っていたのに、ねえ。結局、全国的に商品をばらまくと、どうしても、目が行き届かなくなる。

よし、今度こそ決めた。目先の数字よりもブランドだ。シウマイを大切にしようと決めた。ただ、取引先がいますからね。や〜めたっていうわけにいかない。そこで、話し合いを重ねて、3年計画で撤退することにしました。全国展開をやめたのは2010年頃でしたね。私が社長になったのが91年でしたから、やめるまでに20年はかかったわけです」