「空気を読む」は「察する」とどう違うのか

面倒くさいガキであった僕が、友達から疎まれ避けられ、ひとり寂しく空気をスーハーしているとき、世間では空気を読むという行為が普及していた可能性はある。「あいつまだ空気を吸うものだと思っているぜ」と嘲笑されていることすら知らずにひとり寂しくアホ面で空気をスーハーしていたのかと思うと悔しい。

「空気を読む」が僕の日常生活を侵略してから、はや20年以上が経過している。初めて「空気読んでよ」を耳にしたとき、意味がわからず戸惑ってしまった。「空気を読む? なんだそりゃ」というのが第一印象であった。その意味と用法を知ったときは「ずいぶんと使い勝手のよろしいフレーズだ」と思った。

近い日本語は「察する」だろうか。ただし「察する」には、さりげなく雰囲気を感じ取って、相手に悟られぬようにいたしましょうというスマートなニュアンスがあるが、「空気を読む」には「積極的に雰囲気を読んでいるのを態度に示していこうぜー! バッチコーイ!」という意味が含まれているような感じがする。

つまり、雰囲気を察したうえで、察したことを大勢に宣伝して味方につけ、より大きな勢力をつくることで面倒な少数意見者に「うまく立ち回ろうよ」という圧力をかけて、場を収めていくのが「空気を読む」の意味するところである。僕に言わせれば、受け手に「読む」という行動を求めて、相手の主体性を尊重しているように見せかけているのがあざとすぎる。

「空気を読む」ことは会議の場でよく行われる

「空気を読む」は会議やミーティングといった3者以上の関係が存在する場所で耳にすることが多い。

たとえば、会議終了時刻間際、会議の参加者一同の頭のなかで「やっと終わるぞー」「トイレ行きたい」「ランチ何食べようかな」という解放感からの楽しい気分がぼちぼちふくらみはじめたとき、「いや、僕はそうは思いませんね」つって真顔で、反論や対案を出し、終了予定時刻を大幅にオーバーさせてしまうような行為に対して、会議がお開きになったあと、「空気読めよー」と言われる。

あるいは、方針や決定事項がまとまりそうなタイミングで、「やったー面倒な問題が一応解決したー」「まったく解決になっていないけど、とりあえず終わらせよう。責任取りたくないもん」「何か言って担当させられたくない」と逃げ切りをはかる気分になりかけているとき、「こんな中途半端な着地点で話を終えては抜本的な解決にはなりませんよ」と言い出して、議論をひっくり返したときも、事後、「お前、空気読めよー」と言われる。