「空気を読むこと」のご利用は計画的に

議論は白熱したほうがいい。問題は解決したほうがいい。だが、こうしたケースでは白熱した議論や明確な結論は歓迎されない。つまり、空気読めは、有意義な議論や到達しなければならない結論よりも、集団としての秩序を保つことをヨシとする考え方。個人という考え方が希薄な日本社会には、空気読むを受け入れやすい土壌があったのだろう。

最近は、「空気読め読め大合唱」である。だが、ちょっとおかしくないか。その場をうまくやり過ごすのは、精神安定上とても有効であるのは間違いない。ただ、空気を読むということは、周りの雰囲気に合わせてあえて意見を言わないという、いわば自発的な箝口令を自分に対して強いているようなものではないか。空気を読みすぎてばかりいると、自分という存在がなくなってしまう。ご利用には計画性が必要だろう。

もちろん、ある程度、空気を読むことは必要だ。空気を読むことが、自分の意見や考えを通すうえで有効な手段にもなりうる。たとえば会議などで、多少の意見の相違はあるが大筋は同じだから賛成するというケース。そういった場合は、大多数の意見に合わせ、大勢が決してから自分の意見を主張して汲んでもらったほうが無難である。

多少の意見の相違にフォーカスして「皆さんにとっては小さな違いでも、私にとっては牛肉と豚肉くらいに大きな違いなのだ」とディティールに執着しすぎて、排除されて闇に葬られるよりはずっといい。

空気を読みすぎて苦労した過去

その一方で、空気を読むことを悪用する悪い人たちもいる。最近では忖度という言葉がそういう悪い意味合いで使われている。僕も空気を読みすぎて大変な苦労をした。以前勤めていた会社の上層部は部下に空気を読ませて、己の手を汚さずに悪事を働いていた。手を汚していたのは僕たち部下であった。

誰もが嫌われたくない。嫌われたら悲しい。つらい。だが仕事のうえでは嫌われたり憎まれたりするのが必要な局面もある。部下に厳しい評価を下せば、どれだけ相手の気持ちに配慮して「この厳しさは愛情だよ」と発言したところで「チキショー! 絶対許さない!」と憎しみの対象にされる。たかが仕事で憎まれたくない、嫌われたくない。されど仕事だから、誰かが嫌われなければならない。

嫌われ役を人に振る悪い人たちがいる。リストラを断行しなければ会社は死ぬ。だけど嫌われたくない。憎まれたくない。夜道を安心して歩きたい。聖教新聞のテレビコマーシャルで涙を流したい。そんなごく普通の平和な生活を守りたい上層部は、リストラを決めておきながらリストラ伝達の現場に、僕ら部下を代理者として立たせるのである。

だが上層部の方々も、僕らから、人に嫌われることを極度に恐れている精神的に弱い人物、というレッテルを貼られたくないので、直接的な命令を下さず、悪の空気読みを使うのである。