文脈を外してしまうと「誤配」になる

【深谷】哲学には広告性が埋め込まれていたというお話からすると、その広告性を哲学者みずからが放棄してしまっているということなのですね。

岡本裕一朗・深谷信介『ほんとうの「哲学」の話をしよう』(中央公論新社)

【岡本】そうですね、いろいろな見方はあろうかと思いますが、研究者が引きこもりがちになってしまっているがために、専門家以外の人が、一番いいところだけをすくって魅力化して打ち出す、という方法で哲学の広告化をおこなっているという面はあると思います。ただ正直な話、哲学でそれをやると、いいとこ取りで都合よく意味づけや理由づけのためにその概念を使ったという印象はぬぐえません。

これはわたしのモットーなのですが、哲学の概念にはそれぞれに文脈があります。ですので、その文脈を外して概念を使おうとすると、それは誤解にならざるをえません。いいとこ取りをした哲学本は、ある意味哲学の「誤配」です。しかし概念を誤解することで、その概念をやさしく説明でき、すぐに使えるものにできるのかもしれません。だから誤解が悪いと言っているわけではないですよ。誤解の下に行動して結果うまくいくことも十分ありえますから、それはそれでいいと思います。

先ほどの弁証法への誤解についても、「ヘーゲル弁証法はすごいね、意見が対立しているときにみんなで「正・反・合でジンテーゼに行こうじゃないか」って言って意見を統合したらうまくいったんだよ、さすが弁証法だよね」。それって弁証法の使い方としては完璧な誤解ですけれども、それで会議がうまく運んだのであればそれはよいことですから、そうした使い方を否定するつもりは一切ありません。ただ、わたしには哲学を誤配することはできないということです。

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