「生業としない人」が入門書を書くようになった

【岡本】たとえば弁証法(ディアレクティーク)というと決まって「正・反・合」という解説がなされます。しかし弁証法が正反合だなんていうのはまったくのインチキで、わたしはそういう説明を聞くたびに「ちょっとやめてよ」と言いたくなる。

じゃあ弁証法とは何ぞや、と問われると、プラトンの「問答法(ディアレクティケー)」から理解しないといけない。もちろん、プラトンの問答法は「正・反・合」なんて言いません。そう考えると、弁証法を解き明かすのはなかなかたいへんで、そんなにすらすらとおもしろおかしく書けるものではありません。なので本を書いてもやっぱり難解だと遠ざけられ、結果売れない本になってしまうだろうと思うのです。

かつて、深い教養のある本当の哲学者が哲学の入門書を執筆するという時代もありましたし、戦後すぐの頃は人々が哲学に期待をしていたのでしょう、日本でも哲学の大家である西田幾多郎(1870~1945)の全集が売れた時代もありました。しかし最近では、哲学をめぐるマーケットの事情で、哲学者が入門書を書くというのは非常にやりにくい状況になっていると言えます。

そのかわりに、哲学を職業としていない人で、哲学に詳しく、知識も文章力も備えたライターさんなどが深入りせずに書いて、それが広く受け入れられているわけです。それはたぶん、歴史学でも宗教学でも同じようなことが起きているのではないでしょうか。

研究者が社会との接点を持たなくなっている

【深谷】哲学はいま、もっとやさしくならないか、もっと使えるようにならないかという世間一般からの要請というかマーケタビリティがありますよね。

いまの時代、何かを世の中に出すときに、「わかりやすい」ことがずいぶんと大事にされる風潮があります。わかりやすさが売れるための条件のように言われたりする。単純さ・わかりやすさだけが求められているわけではないとぼくは思うのですが、売れることをゴールにしたとたんに「わかりやすい」ことが正確さを押しのけて優位に立つという感じです。そして結果、売れたものが「正しい」となる。

売れる哲学と売れない哲学の乖離かいりはますます広がりそうですが、そうした乖離については哲学研究者の方々はどう思っているのですか。

【岡本】研究者はそんな世間一般でのできごとなどまったく意識していないですね。なぜかというと、哲学研究者は、おおかたみなさん大学に自分のポストをもっていますから、もっぱらの関心は学術論文を書くことで、一般に向けたわかりやすい本を書くなんてことをあえてしようとは考えないです。大学の教員であれば基本的に生活に困窮することもないですからね、社会との接点はなくなっていきます。