第二次世界大戦末期、ドイツは敗色濃厚にもかかわらず、国民が一丸となって抗戦を続けた。それはなぜか。現代史家の大木毅氏は「ドイツ国民は併合・占領した国々を虐げ、財産を奪っていた。つまりナチ政権の『共犯者』だったので、戦争をやめるわけにはいかなかった」と解説する——。

※本稿は、大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)の一部を再編集したものです。

写真=SPUTNIK/時事通信フォト
1945年5月9日、ソ連軍が2日にベルリンを占領。独ソの交戦で破壊されたライヒ議会(ドイツ・ベルリン)

「世界観戦争」貫徹という揺るぎない意思

東部戦線は崩壊に瀕していた。1944年8月20日に発動されたルーマニア方面へのソ連軍攻勢は大きな成功を収め、9月末には、ブルガリアに進出する。ブルガリアは枢軸国の一員だったが、陣営を転じて、ソ連側に立って参戦したのである。

ついで、ソ連軍はハンガリーに進撃し、12月末までに首都ブダペストを包囲、ドイツ軍とハンガリー軍の守備隊を孤立させた。ドイツ軍はブダペストを救出するため、装甲部隊を派遣して、1944年12月末から翌1945年1月にかけて反撃を行い、ひとまずソ連軍の前進を止めた。

しかし、ソ連軍は攻撃を再開し、2月12日、激しい市街戦ののち、ブダペストを占領した。北方、バルト海沿岸からポーランドにかけての地域においても、ソ連軍は「バグラチオン」以来の連続攻勢により、北方軍集団の後方を遮断しつつ、ドイツ国境に迫っていた。軍事的にみれば、すでに戦争の結着はついていたのである。

この窮境をみたリッベントロップ外相は、駐独日本大使大島浩を招き、ソ連との仲介を依頼した。日本側は、望み薄とは思いつつも、工作に着手し、その旨をリッベントロップに伝えた。ところが、結局、ヒトラーは最後まで軍事的成果に頼ると決定したというのが、リッベントロップの回答であった。

この一挿話に象徴されているように、ヒトラーは、敗北直前にあってもなお、対ソ戦を、交渉によって解決可能な通常戦争に(それが可能であったか否かはいて)引き戻す努力をするつもりなどなかった。「世界観戦争」を妥協なく貫徹するというその企図は、まったく動揺していなかったのである。