なぜ抵抗運動は起きなかったのか
しかし、ヒトラーはそうであったとしても、ドイツ国民は何故、絶望的な情勢になっているにもかかわらず、抗戦を続けたのだろう。第一次世界大戦では、総力戦の負担に耐えかねた国民は、キールの水兵反乱にはじまるドイツ革命を引き起こし、戦争継続を不可能としたではないか。ならば、第二次世界大戦においても、ゼネストや蜂起によって、戦争を拒否することも可能ではなかったのか。どうして、1944年7月20日のヒトラー暗殺とクーデターの試みのごとき、国民大衆を代表しているとはいえない抵抗運動しか発生しなかったのであろうか。
これらの疑問への古典的な回答として、しばしば挙げられるのは、連合国の無条件降伏要求である。周知のごとく、1943年1月のカサブランカにおける、ローズヴェルト米大統領とチャーチル英首相の会談で打ち出された方針で、枢軸国に対しては、和平交渉を通じての条件付降伏を認めないとするものだ。ナチス・ドイツは、無条件降伏など、全面的な屈服と奴隷化を意味することだと喧伝し、それをまぬがれたければ、ひたすら戦い抜くしかないと、国民に対するプロパガンダに努めた。また、体制の統制・動員能力が、秘密警察等により、第一次世界大戦のときよりも飛躍的に高まっていたため、組織的な罷業や反抗など不可能だったとする説明もある。
ナチ政権の「共犯者」となったドイツ国民
けれども、近年の研究は、より醜悪な像を描きだしている。ナチ体制は、人種主義などを前面に打ち出し、現実にあった社会的対立を糊塗して、ドイツ人であるだけで他民族に優越しているとのフィクションにより、国民の統合をはかった。
しかも、この仮構は、軍備拡張と並行して実行された、高い生活水準の保証と社会的勢威の上昇の可能性で裏打ちされていた。こうした政策が採られた背景には、第一次世界大戦で国民に耐乏生活を強いた結果、革命と敗戦をみちびいた「1918年のトラウマ」がヒトラー以下のナチ指導部にあったからだとする研究者もいる。
とはいえ、ドイツ一国の限られたリソースでは、利によって国民の支持を保つ政策が行き詰まることはいうまでもない。しかし、1930年代後半から第二次世界大戦前半の拡張政策の結果、併合・占領された国々からの収奪が、ドイツ国民であるがゆえの特権維持を可能とした。換言すれば、ドイツ国民は、ナチ政権の「共犯者」だったのである。
それを意識していたか否かは必ずしも明白ではないが、国民にとって、抗戦を放棄することは、単なる軍事的敗北のみならず、特権の停止、さらには、収奪への報復を意味していた。ゆえに、敗北必至の情勢となろうと、国民は、戦争以外の選択肢を採ることなく、ナチス・ドイツの崩壊まで戦いつづけたというのが、今日の一般的な解釈であろう。
つまり、ヒトラーに加担し、収奪戦争や絶滅戦争による利益を享受したドイツ国民は、いよいよ戦争の惨禍に直撃される事態となっても、抗戦を放棄するわけにはいかなくなっていたのである。