スターリンの目的は勢力圏の拡大に変わった

他方、スターリンとソ連にとっての独ソ戦はすでに、生存の懸かった闘争から、巨大な勢力圏を確保するための戦争へと変質していた。ドイツの侵攻前に獲得していた地域に加え、さらに領土を拡大することが戦争目的とされたのだ。

たとえば、戦後に成立するであろうポーランドにも、1939年に奪った地域は返還せず、ドイツの領土を割譲させて、同国を西に動かすこととされた。また、それ以上に、中・東欧を制圧して、衛星国を立て、西側との緩衝地帯とすることが重要であった。そのためには、できる限りソ連軍を進撃させ、中・東欧の支配を既成事実にしなければならない。

こうしたスターリンの政策が如実に示されたのは、1945年2月、クリミア半島のヤルタで行われた米英ソ首脳会談であった。スターリンは、敗戦ドイツの分割統治のほか、ポーランド、バルト三国、チェコスロヴァキア、バルカン半島諸国を勢力圏とすることを求めた。

ドイツ本土進攻作戦は、事実上、こうしたスターリンの戦略目標を達成するための計画であった。バルカン方面の攻勢により、ドイツ軍の予備を南に誘引したのちに、正面攻撃と南からの突進により、東プロイセンにある敵を包囲殲滅せんめつ、ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)を占領する。この東プロイセン作戦と同時に、ヴィスワ川からポーランド西部を横断し、ベルリンを指向する主攻がはじまる。

ソ連軍はドイツ軍を追撃し、ウィーンへ

1945年1月12日、ソ連軍のドイツ進攻作戦が開始された。第一ウクライナ正面軍は攻勢発動から1週間でドイツ本土に進入、同月21日から22日にかけての夜に、ベルリンを守る最後の自然の障壁であるオーデル川を渡河していた。第一白ロシア正面軍も、1月31日にキュストリン北方でオーデル川を渡る。

もはや、ソ連軍のベルリン進撃を押しとどめるものはないかと思われたが、スターリンは安全策を採り、敵首都に前進する前に、両側面、ポンメルンとシュレージェン(シレジア)のドイツ軍残存部隊を掃討せよと命じた。この間、首都を守るべきドイツ軍装甲部隊の主力は、そこにいなかった。

1945年1月の反撃が当初成功したことを過大評価したヒトラーは、最後に残った強力な装甲軍(第六SS)をハンガリーに派遣、反攻を実施させていたのである(3月に作戦中止)。3月16日、ソ連軍が攻勢を発動するとともに、ベルリン前面のドイツ軍の戦線は寸断された。南では、潰走かいそうするドイツ軍を追撃したソ連軍が、4月13日にウィーンに入った。