男女の仲は最初ちぐはぐ

ヘーゲルによると、それは他者に認められ、また自分も他者を認めることで可能になるということになります。たしかに、家族に限らず、自分がかかわる他者から認められないと不幸でしょう。そしてお互いに認め合うことができたとき、真の幸福感を得ることができるはずです。友達との関係でも、会社や地域といった集団においても。

結婚もおなじなのです。お互いが対等であるということは、お互い認め合っているということなのです。しかし、それはいきなり実現できるものではありません。いわば相互に承認し合える状態、それを実現するためのプロセスがあるのです。そのプロセスを論じたところがヘーゲル哲学の真骨頂といえます。

そのプロセスは「主人と奴隷の弁証法」と呼ばれるものです。これは男女を含む人間関係がいかに築かれるかを論じた一つのモデル、思考実験だと思ってもらえばいいでしょう。つまり、ある二人の人間が出会うとき、どちらがどういう立場で接するかを決めるために闘争を経るというのです。いわば人間は生存のために生死をかけた闘争を行うのだと。

その過程で死の恐怖に負け、相手への従属を受け入れた者は奴隷となります。自分の生命への欲求にとらわれてしまったからです。これに対して、死の恐怖をものともせず、自分の栄誉という精神的価値のために生きようとした者だけが主人となります。

良好な夫婦関係は闘争を経て築かれる

ところが、奴隷は労働を通じて、自分の狭い欲求から解放されるに至ります。そして主人のほうは、今度は奴隷の労働によって欲求を満たすだけであり、それに依存してしまうのです。ここにおいて両者の立場の逆転が生じます。主人は奴隷を承認せざるをえなくなるというわけです。

その先に何があるのか。ヘーゲルはそこまで明確には論じていないのですが、後の研究者たちはヘーゲルが相互承認を念頭に置いていたのではないかといいます。承認をめぐる闘争を経て、二人の人間は相互に承認しあえる段階を獲得するのだと。

この話をするたび、多くの人が「うちの夫婦関係と同じだ」というようなことをいいます。最初はご主人が(文字通り日本では夫のことを主人という!)えらそうにしていたところ、実は奥さんのサポートによって家庭が成り立っていることに気づきはじめ、頭が上がらなくなる。そうしてお互いを認め合う。そういうことが起こっているのだと思います。

ヘーゲルが、結婚論においてパートナー同士が対等でなければならないというのは、あくまで承認をめぐる闘争を経たうえで、対等になるという話をしているのだと思います。だとすると、格差婚こそが主人と奴隷の弁証法のデフォルト状態だといっていい。だからこそ格差があると感じているほうの人間は頑張るのです。