忘れられなかった欧州のビールの味
では、この完全に赤字ビジネスだったビール事業を重治氏があえて残す決断ができたのはなぜでしょうか。ここで重要なのが、経営学の第2の視点、「センスメイキング(意味付け・納得させること)」です。不確実性の高い時代、危機に直面したときは、魅力的で納得できるストーリー、創業の理念をステイクホルダーに語り、アイデンティティを取り戻す。自分の事業に意味付け・納得ができるからこそ、リスクのある投資でも前進できるわけです。
重治氏の場合、自身の体験を重ね合わせることで、幸嘉氏の創業の原点を理解し、自身と組織に「意味付け・納得」をさせて行ったことが大きかったといえます。
幸嘉氏は「ビールは農業である」という強い信念を抱き、小江戸ビールを造りました。川越産の麦をビールとして活用できないかと考えたのが、開発の発端だったそうです。一方、重治氏は学生時代、ヨーロッパで味わったビールの忘れがたい思い出がありました。
「学生時代、バックパックひとつでいろいろな国を旅していたんです。ロンドンのパブに行けば、人々が味の濃い常温のビールをゆっくりと味わっている。ミュンヘンでは世界最古のビアホールといわれるホフブロイハウスでお客たちがマグを手にじっくり語らっている。キンキンに冷えたビールを一気飲みする日本とはまるで違う世界観に魅了されたものです」
幸嘉氏の「ビールは農業である」という信念、本物志向、安心安全な農業といったキーワードは有機、ロハス、サステナビリティなど現代のトレンドに結びつくコンセプトであることを、副社長の重治氏は感じ取っていました。同時に、ヨーロッパで知ったビールの味、豊かな時間を重ね合わせ、ある確信を抱くようになったのです。「時代がめぐれば手作りで本物志向のビールが理解される。創業の理念も、世に受け入れられる時が必ず来る」。
重治氏は今こそ「ビールは農業だ」という原点に還るべきであること、地ビールではなく、「クラフトビール」というポジショニングを確立すべきだということを、切々と義父に語りました。まさにセンスメイキングです。
ちなみにあくまで私の推測ですが、もし2人が実の父子であったなら、このセンスメイキングは失敗に終わったかもしれません。実家の会社が置かれた状況を客観的に把握することは難しかったでしょうし、父の心情を汲むあまり自分の意見を強く主張するのははばかられたかもしれません。しかし、重治氏は捨てるべきもの、守るべきものを冷静に見きわめ、臆せず義父を説得し続けました。いずれも彼が娘婿だったからこそできたことなのかもしれません。