「父は日頃から『おまえには会社を継がさへん』と言っていました。そのかわり、ことあるごとにいつかはベンチャーをやれ、一国一城の主人になれ、と発破をかけられたものです。ならば、さまざまな分野にネットワークを広げる総合商社に行こうと。なかでも伊藤忠は“野武士集団”と呼ばれるだけあり、自由闊達な社風と聞いていました」
実際入社してみるとそのとおりで、配属されたアパレル関連部門では、会社の看板を使ってやりたいことを思う存分できたそうです。
「1年目から、自由に海外を飛び回って商売していました。注文をとりつけたら自分で予定を組み、提携先の工場があるインドネシアや中国に飛ぶ。価格交渉の折り合いがつけば、その場で課長のゴム印を押して契約を締結していました」
入社早々、課の投資先企業や仕入先の決算書をチェックして上司に報告をするなど、プライベート・エクイティ(投資ファンド)のような仕事もしていたといいます。おかげで会計の知識がひととおり身についた、と山根氏。入社3年目には同じ部署の同期では最速で上海に駐在をすることになります。
一本の電話で家業に引き戻される
前途洋々の道を歩んでいた山根氏でしたが、2013年、一本の電話で家業に引き戻されることになります。
「やっぱり、おまえしかおらん」
お父さんは末期の肝臓がんでした。電話がかかってきたのは亡くなる3日前のことです。
「社内の人間には、もうこの業界も会社も変えられない。おまえは大手商社の仕事のやり方が身についている。社長になって新しい文化をつくってくれ。好きにやっていい」
その言葉に山根氏の心は揺れました。
「実は、ゆくゆくは自分で興したベンチャーを大きくし、それから父親の会社を買収してやろうという計画を立てていました。ですが、起業できるのは当分先のこと。後を継いで改革するのも面白そうだと思ったのです」
「親の会社を乗っ取りたい」という野望を山根氏が抱くようになった背景には、お父さんの独自な教育方針があったようです。後を継げとは言わなかったものの、子育てに関心がなかったわけではなく、むしろ機会をとらえては帝王学を学ばせる教育熱心な親でした。