罵声を浴びせて「自分は無力な存在ではない」と肯定する

「正義の心に燃える群衆」の多くはこの平和で安全な社会で堅実に暮らしていて、自分たちは「よい市民」として暮らしているはずなのに、自分の傍らには、なぜかその暮らしが報われていないような感覚がつきまとっている。「自分は“ただしい行い”をしているのではなくて、ただ“間違っていない”だけ。“失敗していない”のではなくて、“成功していない”だけ」であると。否定はされてないがしかし肯定もされないような、「中空の存在」として生きることを余儀なくされている――そんな感覚があるのではないだろうか。

私たちは日々一切を穏やかに暮らしていくため、平和で安全な社会を一致団結して作り上げてきたはずだが、同時に「悪の帰還」を知らず知らずのうちに待ち望むようになったのではないだろうか。平和で安全な暮らしは、自分が「まとも」かどうか、「ただしい」かどうかの相対的な立ち位置を見失わせるが、わかりやすい絶対的な悪は、私たち一般市民に「まともさ」「ただしさ」を確認させてくれるからだ。

大勢の人がこぞってバッシングに加わり、怒号や罵声を浴びせる――その列に自分も参加することで、「自分はいまもただしい側にいるのだ」と再確認することができる。平時の自分ではとてもかなわない相手を糾し打倒することで、「自分はけっして無力な存在ではないし、ただしい行いもできる」と肯定される。

いま苛烈を極めている「上級国民バッシング」は、殺人事件による死者も自殺者も減少し、自動車事故の死者数も年々減少する平和で安全で穏やかな社会のなかで「ただしさの不在」におびえる人びとの反動として吹き荒んでいるのではないだろうか。

御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』を2018年11月に刊行。Twitter:@terrakei07。「白饅頭note」はこちら
(写真=時事通信フォト)
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