この社会に蓄積する「不公平感」というマグマ

「上級国民」という、身分差別を彷彿とさせるような語が抵抗なく広がっていること、またこのことばがある種の「私的制裁の正当化の方便」として用いられていることから、この社会には音をたてずに「不公平感」というマグマが蓄積しているのではないかと考えさせられる。

なんらかの理由で暴走した自動車が無辜の市民を死傷する事故はこれまでに何度もあったが、今回ほどの「正義の群衆」をつくりだしてはいなかった。加害者がエリートであったこと、犠牲者が無辜の市民であり、命を落としたのが幸せな暮らしを送る母子であったこと、そしてそのエリートが他の事故とは異なって逮捕されなかったように見えたこと、そのすべてがこの「不公平感のマグマ」を爆発させる起爆剤として作用したように思えた。たとえば被害者が幸せな母子ではなくて身寄りのない高齢男性などであったならば、おそらくこれほどの反応は惹起されなかったはずだ。

「特別な彼らと、何者でもない私たち」

「今回はただ偶然に炎上案件となっただけ」だとはとても思えない。「エリートはズルをして地位も富も名誉も手に入れている」という感覚をおそらく多くの人が暗黙裡に内面化しており、その認識と整合的なストーリーラインが池袋自動車暴走事故で再現されてしまったように見える。エリートはズルをしている。それはカネや権力の話だけではない。こうしてなにか罪を犯したときにだって特別扱いされているのがなによりの証拠だ――と。それはまさに「特別な彼らと、何者でもない私たち」という対比構造にフィットする様相だった。

「上級国民」というワードをすんなり受け入れてしまったからといって、社会が分断され、階級闘争的になっていると結論づけることはできないが、エリートたちがカネも権力も、そしてなにより「ただしさ」もほしいままにしてしまい、非エリートたちは(直接にそういわれなくても)自分たちは劣っていて、弱く、そして間違っているかのような感覚が広まっていることは否定できないようにも思える。