石神が心から身をささげたものの正体

石神の靖子への愛の稚拙さが気になってしまった僕ですが、彼の数学への愛の描き方は抜群にうまい小説ですよね。まるで人を好きになるみたいに「数学」に心を奪われる男性っているんだなと面白く読めました。

手塚マキ『裏・読書』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

僕がこの小説で1番好きだったのは、とある生徒から「なぜ数学を学ぶ必要があるのか。時間の無駄だ」と石神が問われるシーンです。石神は、数学は「世界につながる窓なんだ」と説きます。

「いっておくが、俺が君たちに教えているのは、数学という世界のほんの入り口にすぎない。それがどこにあるかわからないんじゃ、中に入ることもできないからな。もちろん、嫌な者は中に入らなくていい。俺が試験をするのは、入り口の場所ぐらいはわかったかどうかを確認したいからだ。」

このシーン、石神が心から数学というものを愛していることが伝わって、僕は1番好きです。もしかすると『容疑者Xの献身』は、石神の靖子に対する「献身」ではなく、石神の数学に対する「献身」だったのではないでしょうか。彼は、数学を愛していた。だから、数学的ロジックに基づくトリックに、文字通り身をささげることができたのだと思います。

数学を愛するように、僕は何かを愛したことがないからうらやましいです。恋愛は、相手がいるから不安定です。ふてくされたり、態度を変えたりするのが人間ですが、数学はじっと向き合えば必ずその分だけ答えてくれるように思えます。

超天才が見せた人間らしいほころび

石神は刑務所に入っている間、愛する数学と向き合えることに無常の喜びを感じています。目の前の壁にある染みで、図形の問題を作ってみたり、座標計算を繰り返したりしています。「何も見えなくても、何も聞こえなくても」頭の中で数学の問題を解き続けられる限りは、「(刑務所でさえも)無限の楽園」なのだと書かれています。

見返りがなくても、相手が目の前にいなくても、まぶたの裏に浮かび上がらせて、思いを馳せるってある意味「究極の愛」なのかもしれませんね。

ところで、超天才の石神の犯行に、超天才の湯川が気づくきっかけが、石神の「身だしなみ」だというところには、僕はちょっとした“希望”を感じました。

物語のクライマックスシーンで、湯川が最初に石神を疑い始めたきっかけについて話します。

それは石神が、鏡に映った自分と湯川を見ながら、「君はいつまでも若々しい、自分なんかとは大違いだ」と言って、自分の髪の毛を気にするそぶりを見せた時でした。

容姿なんて気にする性格じゃなかったのになぜ? と違和感を覚えた湯川は、彼が恋をしていると気づくんですね。

僕たちは誰かの身だしなみの変化には瞬時に気がつきますし、必ず口にだして伝えるように1年目の頃から教育されます。

「髪切りましたか?」「その洋服、いつもと雰囲気違いますね」といった具合に。

ホストなら全員、間違いなく石神に言ってしまうでしょうね、「あれ、お前そんなの気にしてたの? 好きな子できた?」と。

手塚マキ(てづか・まき)
ホストクラブ「Smappa! Group」会長
1977年生まれ。中央大学理工学部中退後、歌舞伎町のナンバーワンホストを経て独立。ホストのボランティア団体「夜鳥の界」を立ち上げ、NPO法人「グリーンバード」理事。2017年「歌舞伎町ブックセンター」をオープン。近著は『自分をあきらめるにはまだ早い[改訂版]』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)。
(写真=iStock.com)
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