このように相手を無理やり説得しなくても、参照点を動かすメッセージを伝えることで、行動変容を促すことは可能なのです。医学的により望ましい治療法を患者に選択してもらううえでも、この参照点を動かすという考え方は、有効ではないかと考えています。

健康サイトを信じる罠

科学の進歩で効果のある新たな治療法が次々発見される一方、まだまだがんは「不治の病」のイメージも根強く残っており、患者の中にはエビデンスのない民間療法や怪しげな薬に頼ってしまう人も少なからずいます。その原因として、「利用可能性ヒューリスティック」と呼ばれるバイアスが働いていると考えられます。

ヒューリスティックとは「近道による意思決定」という意味で、正確な情報を手に入れずに、身近で得た情報やすぐに思い浮かぶ知識をもとに行動することを指します。例えば医師からの情報ではなく、知人から聞いた「この食べ物を毎日食べたら、がんが消えた」といった情報を信じて、科学的に実証された適切な治療よりもそちらを優先してしまうなどの行動が代表的です。そうした非合理的な選択をしてしまう背景には先ほど述べた「損失回避」の心理も働いていると考えられます。「やれることが残っていたのに、やらなかった」という後悔を回避するために、非科学的な治療法でも「やらないよりはマシ」と感じてしまうのです。

そのような非合理的選択を避けるためには「人には身近で得た情報を信じ込む傾向がある」ことを知って、週刊誌やテレビなどから得た科学的裏付けの乏しい情報に対しては、批判的な視点を持つことが大切です。とくに最近は、何かしらの病気にかかった際に、多くの人がまずはインターネットで情報を調べると思います。しかしネットの医療情報は玉石混交で、広告収入を得るための怪しいサイトもたくさんありますので、注意が必要です。

最後に、冒頭にも申し上げましたが、意思決定のバイアスは患者だけでなく、医師にも存在します。『医療現場の行動経済学』の中で、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の医学部に所属する津川友介氏が執筆した章では、「医師が合理的な判断をいつもしているとは限らない」ことを様々な研究から明らかにしています。なかでも興味深いのは、0.4%というわずかな差ですが、「女性医師が担当する患者のほうが、男性医師の担当患者よりも死亡率が低い」という研究結果です。

それは「女性医師のほうが、男性医師よりもガイドラインに沿った治療を提供している率が高い」ことにあると考えられるのですが、津川氏はその理由として、「株式投資のパターンなどにも見られる、男女でリスクに対する態度が違う可能性」を挙げています。男性のほうがリスクを好み、女性のほうがリスク回避傾向が強いことが、医療行為にも影響を与えている可能性があるのです。

医師は医療の専門家で、常に医学的知識に基づき、最善の意思決定をしているはずだ、と一般には考えられていますが、現実には様々な行動経済学的バイアスの影響を受けることを、医師自身も自覚する必要があるでしょう。

医療行為は必ず大きな不確実性を伴います。手術や投薬を行っても、期待通りに病気が治るかどうかはわかりません。その前提を医師も患者も共有したうえで、より良い意思決定をお互いが積み重ねていくことに、行動経済学は大いに役立つはずです。

大竹文雄
大阪大学大学院経済学研究科教授
編著書に『医療現場の行動経済学』(東洋経済新報社)、著書に『経済学的思考のセンス』『競争と公平感』『競争社会の歩き方』(いずれも中公新書)ほか多数。
 
(構成=大越 裕 撮影=福森クニヒロ 写真=amanaimages)
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