例えば10年にわたって数種類の抗がん剤治療を続けてきた患者は、副作用で心臓の病気が悪化するため抗がん剤の中止を医師に勧められても、「10年間もつらい思いを耐えてきたのに、治療を無駄にしたくない」と反対しました。これは行動経済学では「サンクコストの誤謬」と呼ばれるバイアスです。

サンクコストとは「埋没した費用」を意味し、過去に支払った費用や努力のうち、これから先何があっても戻らないものをいいます。閉店間際のスーパーマーケットでは、売れ残ったお惣菜を半額以下で売っています。その値段は、人件費や仕入れ価格を考えて赤字であってもです。しかし惣菜を作るのにかかった費用、すなわちサンクコストは、もうどうしようもありません。捨てるか売るかの二択であれば、わずかな金額でも売れたほうがいい。それがサンクコストの考え方です。しかし、多くの人は、取り戻すことができないサンクコストを取り戻そうとします。

先ほどの患者の場合も、10年かけた抗がん剤治療の過去は、これから先の治療の選択をするうえで、医学的にはまったく無関係の状態でした。それならば、少しでも延命につながる治療法を選ぶべきです。治療法を判断するうえでは、過去にかかったコストではなく、将来得られるメリットであることを認識しておくことが大切なのです。

なぜがん患者は、治療法を間違えるか

行動経済学では、「何らかの利益・損失を評価する際の基準となる原点」を「参照点」と呼びます。がんの治療の選択の場合でも、参照点をどこに置くかで、判断が大きく変わってきます。

例えば末期のがん患者に対して行われる「緩和ケア」。がんがもたらす苦痛を軽減しながら穏やかな最期を迎えるためのケアですが、これを選択することは、末期がん患者にとって「死」という損失を確定させることを意味します。「どんなに痛くてつらくても生きていること」を参照点にする人は、たとえ1%でも生き延びられる可能性があるなら、緩和ケアを受け入れるより、失敗の可能性が高くても積極的な治療を選択するほうが望ましいと考えるでしょう。その逆に「人はいずれ必ず死ぬ。それならば穏やかに死を受け入れたい」と考えて、いずれ来る「死」を参照点にする患者は、緩和ケアを受け入れる確率が高いと考えられます。

大切なのは、参照点は自分あるいは他の人によって、書き換えることができるということです。

アメリカで数年前に巨大なハリケーンが襲来した際に、大きな被害が予想される地域で暮らす人々に避難勧告が出されました。そのとき「どうせ大した被害はないだろう」と逃げずに家にとどまっていた人に対して、実に効果を挙げた呼びかけがあったそうです。

それは「逃げなくても結構です。そのかわり、体に社会保障番号を書いておいてください」という呼びかけでした。つまり「あなたが遺体になったときに、身元がわかるようにしておいてね」と伝えたわけです。このメッセージは、残っていた人の参照点を見事に書き換え、彼らに避難行動をとらせました。それまで彼らは「逃げなくてもこのまま生き延びられるだろう」と、現時点の自分が生きていることに参照点を置いていたわけですが、「社会保障番号を書け」と言われたことで、「迫りくる自分の死」に参照点が移り変わったのです。