若い人への教育が徹底されていた

――ジャスコでの仕事はいかがでしたか?

東海友和『イオンを創った女 評伝小嶋千鶴子』(プレジデント社)

教育が行き届いていた会社だというのは感じましたね。僕は最初に雑貨売り場に配属されたのですけど、そこのフロア長が僕より2年ぐらい上で、とてもよくできる方だった。そのフロア長は、最後は九州ジャスコの社長までされたと聞いています。

「ジャスコはすごいな、2年しか違わないのに、僕とはえらい違いだ。こんなしっかりした人がいるんだ」と、それぐらい若い人への教育は徹底されていましたね。それこそ、小嶋さんとか著者の東海さんがしっかりと担当されていたんだと思います。

一方、店長とか、その下にいた人とはいつもケンカしていました。フロア長が「ネクタイをしてこい」というから、「雑貨売り場で荷物を運ぶのに、ネクタイは必要ないでしょう」って。新入社員だったけど、くってかかっていましたね。

そうしたらフロア長が「それなら、まあ、いいよ。柳井くん」って。でも、そういうことがいえる会社だった。いい思い出ですね。最初の配属は四日市の本店で。そのあと、実家が紳士服を扱っていたので、紳士服売り場へ異動になりました。でも、あまり紳士服での思い出はないです。

ジャスコを辞めて英語の専門学校へ

小嶋さんが作った星雲寮というのが四日市にあり、そこで僕も若い大卒の人と一緒に生活していました。2人1部屋だったかな。その人は警察官になるって言って、辞めていきました。「柳井くんも警察官にならないか?」なんて、声をかけられてね。もちろん断ったけれど、僕自身も仕事に情熱がもてなくて、すぐに辞めることになりました。

――ジャスコを辞められてからは、すぐに家業に戻られたのですか?

いえ、その後、上京して、留学しようと英語の専門学校に入りました。高校の同級生のアパートに住まわせてもらったのです。だけど、彼はもう勤めていたので夜にならないと帰ってこない。僕は学校が終わってすぐに帰ってきては時間を持て余している。そのギャップに自分が惨めになってね。

そもそも勉強も地に足が着いていないものだから、なかなか身につかないし、いやになってしまったんです。親も帰って来いというし、半年くらいして実家に帰りました。それで家業に入ったんだけれど、そんな息子が従業員に対してああでもない、こうでもないって言うものだから、社員が全員辞めてしまった。自分で振り返ってみてもあのときは最悪でした。