「違い」を知ると不平等に感じる

みんながより平等になり、互いが同じ人間であることがわかってくると、その間に残る違いにより敏感になってしまうのです。矛盾ですよね。身分制がもっと厳しかった時代には、違いがあっても気にしなかったのに。平等化が進むと、人々はよりわずかな違いにより敏感になるというのです。むしろ、平等化時代の個人は、そのような違いが、気になって仕方ないのです。

たとえばテロも、トクヴィル的に言えば、平等化が進んだ結果なのかもしれません。かつて、非先進国に住む人々にとって、他の国で人々がどんな暮らしをしているかは、想像もつきませんでした。仮に想像したとしても、アメリカやヨーロッパで暮らす人たちは、自分たちとまったく別の人に思えたはずです。

それがどうです、いまはどこにいても、インターネットを通じて世界の人々の姿が目に入ってきます。いやでも互いを比較してしまいます。かつては嫉妬の対象にすらならない遠い世界にいた人たちが、目の前に見えてしまう。同じ人間なのにこの違いはどうしてだ、と思っても不思議ではありません。

いったん知ってしまうと、「こんなに違いがあるのはおかしい。誰かがおかしいことをしているのではないか、インチキをしているのではないか。同じ人間なのに不平等だ」という感覚が強くなってくる。同じ気持ちの人はいま世界中にたくさんいるのではないでしょうか。

「同じ人間」だけど違う

みなさんだって、思うことはありませんか。「あの人はああなのに、なぜ自分はこうなのか」と。そういうとき「いや、あの人は勉強したから」とか「あの人は運がいいから」とか、みんな必死になって自分を納得させる理屈を考えます。

昔は理屈なんて考えませんでした。もともと違う人間なのだから、境遇が違って当たり前だったのです。ところがいまの僕たちは、どうしてもそんなふうに思えない。同じ人間だから仲よくできるかといえば、同じ人間だからこそ、そこに違いがあると腹が立つのです。

いまや世界の人々が、自分たちはお互いに同じ人間であると思いつつ、その違いを日々、目の当たりにしているわけです。その結果、互いの違いに対するひりつくような感覚をみんな持っている。難しいけれど、これはこれでおもしろい時代だと思います。