日大の芸術学部へ入って映画を撮ろうと考えていた
入学に際して、太田は「勉強はまったくしなかった」と、『爆笑問題 太田光自伝』(小学館文庫)でいっている。
「(日大豊山高校が第一志望だったが=筆者注)すべり止めには大東文化大付属高校と福岡高校を受けようと思っていたんだけど、先に大東が受かったから、“福岡はいっか”ってことになって。今考えると、あの時、福岡高校に行っていれば、あそこまで暗い高校生活にはならなかったかなと思うんです。(中略)でも、自分としてはちょっと地元に飽きてた時期でもあったんですよね。(中略)ま、今となっては大東に行ったから今の自分があるかもしれないし、何がよかったなんて、よくわからないんだけど」
だが太田は、大学で弾けてやる、日大の芸術学部へ入って映画を撮ろうと考えていたのだと「仕事術」の中で語っているから、胸の中では「野心」の炎がメラメラと燃えていたようだ。
日芸は医学部を除いた日大の中の花形学部で、OBには深作欣二、森田芳光、三谷幸喜、林真理子など錚々たる人たちがいる。
だが驚くではないか。先の同級生にいわせると、「太田は割り算ができなかった」というのである。
「裏口ネットワークを使って日芸へ入れようとした」
太田本人も算数に弱かったことは認めている。ダンゴ屋でバイトをしていたとき、釣り銭の勘定ができず、客に怒られないように「なるべく多く渡していた」という。
そんな一人息子を溺愛し、心配した父親・三郎は、『新潮』によれば、「裏口ネットワーク」を使って日芸へ入れようとしたというのである。
太田は自伝の中で、父親のことをこういっている。
「親父は建築関係の仕事をしてました。でも、昔は春風亭柳好さんの弟子になろうとしたり、小説家の太宰治に自分の作品を読んでもらったりしてたらしい」
母親は"女優になり損ねた人"だという。
当時、父親は南青山にある内装会社「三光社」の社長だった。
『新潮』によれば、「日本を代表する指定暴力団の、有力親分の愛人芸者が産んだ娘がいて、そんなちょっとややこしい事情を抱えた人物と三郎氏はひょんなところから知遇を得た。そのコネを通じこのネットワークの元締めに辿り着いている。組織の力は極めて強く、『最も確実に入学できる道』」だったという。