――自分で?

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「そうです。それで毎月1日に女房が銀行口座に振り込んでくれる」

――銀行振り込み?

「そうしてくれと私が頼んでいるんです」

――なぜ、なんですか?

直接手渡すほうが「楽」ではないだろうか。

「たとえ手渡されても自分で入金に行きます。会社員の癖ですかね。定収入という感じを続けたいんです。必要があればキャッシュカードでおろすんですが、そのたびに残高を確認し、残高を維持する。残高はずっと維持してますよ」

竹山さんはうれしそうにそう語った。定収入による安定感。何かひとつ安定させることで安心感を得るのだろうか。

「飲み会にも誘われますけど、今はほとんど行きませんね。もう、群れるのがイヤなんです。趣味の合う人を『同好の士』とか言いますけど、実際はなかなか見つからないと思うんですよ。イヤな人とは会いたくもないし。僕にとって一番の同好の士は女房です」

きっぱりと断言する竹山さん。安定感の源は奥様なのである。

「隠居したらふたりきりの生活だと思っていました。ふたりで旅行に出かけたり、農園を借りて野菜づくりしたり。ところが娘の旦那が海外勤務になりまして、娘が孫を連れて同居しているんです。だから毎日孫の相手をしなくちゃいけません。これが本当に大変でしてね。本を読んでいるとお腹に乗ってきて噛みついたり。子育てってこんなに大変だったのかと、今更ながら女房に感謝しています」

会社員生活を「失敗した」などと振り返られるのも、きっと奥様のおかげなのだろう。よく聞けば、彼は母親の介護もあり、実はかなり多忙らしい。「楽したい」というのも忙しいからこそ「楽したい」わけで、「楽したい」と願い続けるということは、ずっと忙しいという証しなのである。

「引退」も「隠居」も男のロマン

彼が「隠居」を決意するきっかけとなった『ご隠居のすすめ』(木村尚三郎著 PHP研究所 1997年)を読んでみると、確かに「可能な限り早く現役を終えて、隠居生活に入るといい」と書かれていた。

早めに仕事を辞めて隠居生活に入れば「心の充足感」を覚え、「モノからの自由」「時間からの自由」「情報からの自由」という3つの自由を手にし、「自分が自分であることを実感する」ことができる、などと指南しているのだが、「あとがき」によると、著者自身は定年まで大学教授を務め、その後は中央官庁や地方自治体、民間団体などの数々の役職に就いていた。

本の執筆や講演などもこなし、「肉体的には、つらいこともある」などとぼやいており、著者本人はちっとも隠居などしていないのだ。

おそらく「引退」も「隠居」も男のロマン。その言葉を使えば気楽になれるという一種の呪文なのかもしれない。

髙橋秀実(たかはし・ひでみね)
ノンフィクション作家。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『にせニッポン人探訪記』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『結論はまた来週』『男は邪魔!「性差」をめぐる探究』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』など。
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