赤字になった場合にはJTBが全額を負担する

しかし、この第2期の実行計画は、即座に受け入れられたわけではない。

利害関係者の数は多く、立場によって問題の受け止め方は異なる。日本の観光地に共通する問題は、吉野山においても変わりはなかった。

「赤字は本当に解消するか」
「観光客は減少しないか」
「地域の事業者や住民の便益の確保と分配の公平性は保たれるか」

地元への説明会では、こうした懸念が次々と指摘された。事態を動かしたのは、JTBの画期的な提案である。それは、業務委託契約を「固定報酬型」から「成功報酬型」に変えるというものだった。つまり新しい交通需要マネジメントが赤字になった場合には、JTBが費用の全額を負担する。そして黒字で成功した場合は、あらかじめ定められた配分でJTBが収益を獲得するというモデルだった。

それだけではない。JTBは地元にていねいに向き合い、通行車両の規制については、住民と宿泊者についての許可証を発行したり、民間駐車場については、その満車を優先し、その後に観光駐車場への誘導を行う対応を整えた。また、不十分だった道路沿いの交通案内標示については、その設置の徹底をはかり、広報については、全国の旅行会社やマスコミへの情報提供を行ったりするなどの対策を進めていった。

3時間の渋滞区間が10分で通過可能に

こうして導入された交通需要マネジメントにより、吉野山の観桜期の交通渋滞は劇的に改善した。渋滞のピーク時には3時間ほど要していた区間を、いまでは10分ほどで通過できるようになった。また地元の人たちは、休日でも自家用車で外出できるようになった。

交通需要マネジメントは黒字となり、その利益は、吉野山の桜の植樹、トイレのリフォーム、歩行者道路の修繕、清掃スタッフの配置などにあてられた。

続く第3期には、第2期の交通需要マネジメントの骨格を引き継ぎながら、業務委託先の変更が行われた。JTBではない別の旅行会社に変更され、報酬制度の見直しと、運営の簡素化が進められた。その結果を振り返ると、交通渋滞の大きな悪化は起きていないが、収支は再び赤字化している。

「すり合わせ型のマネジメント」が重要

柏木氏が示すように、吉野山の交通需要マネジメントは、現時点では試行錯誤の途上にあり、完成形に達したわけではない。しかし2006年以降の交通渋滞の大きな改善は注目に値する。これは先に述べたように、日本の観光地の交通需要マネジメントにあっては希有の事例である。

われわれは、そこから何を学ぶことができるか。

吉野山にJTBが持ち込んだのは、観光地において顧客がすごすトータルな時間の価値を高める取り組みである。しかもJTBはこのホスピタリティの改善を、赤字だった交通需要マネジメントを黒字に転換しながら実現している。

さらに注目したいのは、そこでJTBが、赤字対策、通行証の発行、民間駐車場への配慮など、地元の不安や実情と向き合い、各種の利害関係者とのすり合わせを、粘り強く進めていたことである。JTBが一方的に主導したのでもなければ、地元の要望を単純にたし合わせたのでもない。全体の効果をにらみながら、個々の調整と対策がねられていった。このすり合わせから生まれたマネジメントに派手さはないが、成功確率の低い事案での偉業あることを考えると、そこで生まれた新結合をイノベーションと呼んでも差し支えはないだろう。

観光地にかぎらない。日本の企業や地域がイノベーションを実現していくためには、この多くの利害関係者と向き合うなかから編み出される、すり合わせ型のマネジメントが重要となるはずである。

栗木 契(くりき・けい)
神戸大学大学院経営学研究科 教授
1966年、米・フィラデルフィア生まれ。97年神戸大学大学院経営学研究科博士課程修了。博士(商学)。2012年より神戸大学大学院経営学研究科教授。専門はマーケティング戦略。著書に『明日は、ビジョンで拓かれる』『マーケティング・リフレーミング』(ともに共編著)、『マーケティング・コンセプトを問い直す』などがある。
(写真=時事通信フォト)
【関連記事】
「安いレクサス」を誰も欲しがらない理由
1万円でバカ売れ 神戸発バレエ靴の戦略
なぜ「熱海」は人気観光地に返り咲いたか
貧困地域ほど「酒とタバコ」のゴミが多い
再配達のワガママが通じるのはいまだけだ