なぜテレビの言葉は空回りするのか。批評家の宇野常寛氏は、テレビ番組でコメンテーターを務めていた理由について「『こんなものを見ていたらバカになる』と伝えるためだった」と振り返る。宇野氏はその問題意識を新著『母性のディストピア』(集英社)にまとめた。そこで論じられたのは宮崎駿、富野由悠季、押井守というアニメ作家の作品だ。この時代にアニメを論じる理由とは――。(前編、全3回)

「ノンポリのオタク」という自己紹介

――宇野常寛さんは、2012年の元日に放送されたテレビ番組『ニッポンのジレンマ』(NHK Eテレ)で、「ノンポリのオタク」というキャッチフレーズで紹介されていましたよね。しかし、この本のテーマは「政治と文学」で、当時とは問題意識が大きく違うように思います。なにがあったんでしょうか。

たしかに当時の僕は、テレビ番組などで「僕はノンポリのオタクなので――」というフレーズを使っていました。それは、政治家や学者の言葉を混ぜっかえしたり、「そもそも論」に持っていって中和したりするような戦い方をしていたからなんですよね。「僕、素人なんでわからないんですけど、それってそもそもこういうことですか?」って問題設定自体を問い直したかったんですよ。相手の土俵に乗らないためのテクニックですね。

――当時の宇野さんは討論番組にもよく出ていましたね。

2011年から2013年ごろまで、僕は『ニッポンのジレンマ』や『日曜討論』といったNHKの討論番組によく出ていました。でも、「ノンポリのオタク」というフレーズには僕なりの「アイロニー」もありました。本当は自分を「ノンポリ」と思っているわけではないんです。むしろ僕のような態度こそ政治的だとすら思っていた。要するに人間の消費活動やメディアとの接し方といった場面から社会を考えるほうが、20世紀的なイデオロギーで右とか左とかいうより、ほんとうの意味で「政治的」だと思っているわけですね。

僕は本当はいきなり「憲法が……」みたいなところから語るのは好きじゃないんですよ。でも、討論番組に出てくる政治家や学者たちの一部は、まあこの本の言葉で言うなら「政治と文学」は切断されていて、自分たちは政治の言葉で語っていると思っている。その強烈な思い込み、戦後日本的な思い込みが、彼らの言葉をすごく空疎にしている。当時はその空疎を明らかにするという戦略を取っていたんですよね。

こんなニュースを取り上げること自体がおかしい

――この本を書いていた時期は、もはやそういう考えではなかったわけですね。

この本を書いていた時期って、僕が『スッキリ』(日本テレビ)に出ていた時期と完全にイコールなんですよ。構想自体は10年くらい前からあって、月刊誌『新潮』での同名の連載がモチーフになっているんですけれど。ただ、実際に書き始めたのは『スッキリ』が始まってからのことです。

――具体的にはいつ頃ですか?

2015年の夏ですね。『スッキリ』が始まって数カ月たったときに、自分なりの手応えは感じていました。あそこで僕が言っていたことって、基本的にはたったひとつ、「こんなものを見ていたらお前たちはバカになる」ということです。週に一度、悪目立ちをした人や失敗した人を「叩いてOK」なものとして提示して、視聴者を「世間のまともな側」と思わせて安心させる。そんなのばっかりなんですよ。

それに対して、そもそもこんなニュースを取り上げること自体がおかしい、それをこんな切り口で紹介すること自体がおかしい、とずっと言ってきた。最初はギクシャクしたけれど、加藤浩次さんや僕を引っ張ってきたプロデューサーたちも、そんな僕の役割を「必要悪」として認めてくれて、居場所を獲得しつつあった時期ですね。