「千利休は自刃せずに生きていた」という新説が話題を集めている。たしかに当時の記録は錯綜しており、秀吉も「切腹の翌年」に「利休の茶を飲んだ」と書き残している。だが大日本茶道学会の田中仙堂会長は「自刃したからこそ、千利休は創始者になれた」と反論する。どういうことなのか――。

なぜ利休の切腹は歴史の定説なのか

今年、「茶道の創始者である千利休は自刃せずに生きていた」という新説がテレビでも取り上げられ、注目を集めている。文教大学の中村修也教授が『利休切腹』(洋泉社)で示したもので、利休が自刃したとされる年の翌年に、秀吉が、「きのふ(昨日)りきう(利休)の茶にて御せん(膳)もあがり」と書いてあることが根拠になっている。

利休が、天正19(1591)年2月28日に切腹したとのうわさは、奈良興福寺の僧侶たちが書き残した『多門院日記』に記されている。しかし、『多門院日記』には、「利休が高野山に追放された」という矛盾する情報も記載している。興福寺に伝えられた情報は錯綜していたようなのだ。一方、北野神社の記録である『北野社家日記』には、利休が成敗されたとある。首をはねられても成敗である。つまり、同時代の記録を精査すると利休が切腹したかどうかは怪しいと文句がつけられる状態なのである。

では、なぜ利休の切腹は歴史の定説となっているのだろうか。強い根拠となっているのは千家が所蔵する『千利休由緒書』という史料だ。千家四代江岑宗左が、出仕していた紀州徳川家の命により差し出したものである。ここでは利休の切腹の場面について、当時の天候や警護の様子まで描かれている。後世の歴史書も、この史料を援用しているため、利休がその日に切腹したという認識は、強固に形成されていったのである。

利休の罪状は、言いがかりに思える

もちろん、同時代の寺社の記録と、利休没後、曾孫の世代になってから紀州家に提出された説明文書である『千利休由緒書』を史料として同じ重みづけで扱うことはできない。ご先祖様の武功話が脚色されることを常と思えば、利休が見事に自刃して果てたというイメージは、徳川政権に、祖先を立派な存在として報告する中で強調されたのではないか、と勘ぐることもできるだろう。

しかし、百歩譲って、利休が切腹していないとしても、利休が秀吉の信頼を失って失脚したことは確かなことだ。

なぜ、利休は失脚したのか、当時の記録には、大徳寺の山門に雪駄を履いた自身の木像を置かせたこと、茶道具などの売買で不当な高値を付けたこと、などが挙げられている。

大徳寺の山門に利休像が安置されたのは、利休が切腹した2年前のことで、なぜ今になってとの感がある。また商人が取引において利益を得ることに文句をつけるのは筋が悪い。つまり、同時代の記録に記される利休の罪状は、言いがかりに思えてしまう。