利休の失脚の原因は、「秀吉政権の権力争い」という朝尾友弘説が有力で、それをさらに補充する研究も出版されている(生形貴重『利休の生涯と伊達政宗』河原書房)。私も歴史社会学を標榜する研究者としては、その通りだと思う。

「切腹」は単なる自殺とは違う

しかし、茶人としては、「茶聖」たる利休を、秀吉政権内の権力争いのみで失脚させてしまっては申し訳ないというか、物足りないという気持ちを持ってしまうことを正直に告白したい。

切腹という言葉にこだわったのは、単なる自殺とは違うからだ。東京大学の山本博文教授は、著書『武士はなぜ腹を切るのか』(幻冬舎)で、「切腹とは、自ら腹をかっさばくことで無実を主張したり、汚名をそいだり、責任を取ったりする行為で、武士のみに許された名誉の死なのである。なぜ腹を切るのかというと、腹黒くないことや何も隠していないことを証明するという意味かと思います。根本的に、自殺とは違います」と説明している。

切腹には名誉の死を遂げたというイメージがある。それに加えて、無実を主張するというニュアンスがある。

『利休由緒書』には、「利休めはとかく果報のものぞかし 菅丞相になるとおもへば」との利休の辞世も紹介されている。菅丞相とは、菅原道真のこと。讒言によって大宰府に左遷されて非業の死をとげた道真は、天満宮に祭られる神様となった。日本人の古いメンタリティとしては、非業の死を遂げた魂は、荒ぶる神となってこの世に禍をもたらすので、神様としてお祭りしてその魂を鎮めなければならない。利休のこの辞世は、利休が非業の死を遂げ、後の人によってあがめられる可能性を示唆しているようだ。

一方、日本人は、ひとたび神様になっていただいたらば、いろいろお願いをするずうずうしい存在である。天満宮には、受験成就をはじめいろいろな願い事が現在でも寄せられ続けている。われわれ茶人は何か迷うと、「利休居士ならばどうしたのであろうか?」と利休の在り方を手本にしようとしている。日本では古来、神様とは公的な存在、仏様とは私的な存在として言葉が使い分けられてきた。利休居士が神様にまで格上げされていないのは、利休居士にどうしたよいかとお願いする人々がまだ、茶人に限られているからであろう。