こうして慶朝氏のコーヒー修行が始まり、当初は焙煎作業日に合わせて東京から茨城まで電車で通勤した。サザコーヒー側はグリーン車の切符を手配したという。すでに行きつけの「ダボス」は閉店し、コーヒーを渇望していた慶朝氏にとって、茨城の水は心地よかったようだ。もともと天領で徳川家を尊敬している土地柄。理解者だった母の和子氏(会津松平家出身)も他界しており、後に慶朝氏は自宅をひたちなか市に移している。
1969年開業のサザコーヒーは、当時で創業30年。鈴木氏は昭和時代から自家焙煎を追求しており、長年専門誌に連載を持つ人物だ。個人経営の店(個人店)には珍しく、南米コロンビアに自社直営農園も所有している。長男の太郎氏はコーヒー品評会の国際審査員も務め、コーヒー豆のトレンドにも精通する。つまり「コーヒー関連情報の宝庫の店」だった。
プロも驚いた“ぜいたく焙煎”
ふだんはのんびりした性格だったという慶朝氏は、「仕事となると職人気質の技術者で、几帳面な一面もあった。焙煎技術を高めるために創意工夫し、小道具も自分で作るなど、何でも自分でやりたがる人でした」(鈴木氏)。そして、こんなエピソードも明かす。
「一般にコーヒー1杯に入れるコーヒー豆の量は、レストランでは7グラム、一般のカフェでは10グラム。サザコーヒーは15グラムにしています。それがテスト焙煎時に慶朝さんは60グラムも使われたのです。これには驚きましたが、飲んでみるとこれまで感じたことのない味でした。『美食は貴族がつくる』とも言われるように、常識にとらわれない一面もお持ちでした」
「徳川将軍珈琲」の味の開発では、鈴木氏が幕末の文献を徹底的に調べた。1867年に慶喜がフランス人の料理人を雇い、大坂(現大阪)の晩餐会で欧米の公使をもてなし、コーヒーを出した献立も残っていた。「当時は世界のコーヒー流通の6割をオランダが占めていた」歴史にちなみ、当時オランダ領だった、インドネシア産の最高級マンデリンを使用。深煎りで焙煎したのも、史実に沿って現代風に再現したためだ。